日産、痛恨の失敗

1982年、アメリカで現地生産を開始した日産自動車。

 

日産自動車が現地生産したのはピックアップトラックだった。

 

アメリカは乗用車の関税が2,5%、トラックの関税が25%だったので

 

日産自動車は乗用車は日本から輸出し、関税の高いピックアップトラックは現地生産ということにした。

 

しかし80年代のアメリカはセダンが人気だった。

 

さらに日米貿易摩擦で日本からの輸出が批判される。

 

経済安全保障が考えられてきて、アメリカの国家戦略として日本潰しが始まっていくことになる。

 

アメリカ民主党の票田である労働組合も大きく騒ぎ、民主党を支持する大手マスメディアも日本から輸出される日本車を批判する。

 

共和党レーガン政権も民主党からの攻撃を交わすために日本車の輸入に厳しくなった。

 

人気車種のセダンを日本から輸出することで商売がやりくくなる日産自動車。

 

本田技研工業ホンダはコンパクトセダンのホンダ・アコードを現地生産し、

 

トヨタ自動車はGMと合弁でニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング・インコーポレイテッドを設立し、サブコンパクトセダンのトヨタ・カローラとOEM車のシボレー・プリズムを現地生産する。

 

ホンダはピックアップトラックを作っていなかったのでコンパクトセダンを現地生産し、トヨタはGMの意向でサブコンパクトセダンを現地生産し、ホンダとトヨタは時流に乗りアメリカで躍進する。

 

日本車と言えば日産(ダットサン)だったのにトヨタ、ホンダに抜かれ、抜かれるだけで済まず販売を落とす日産。

 

 

関税が高いか安いかに着目しすぎで、国家戦略、経済安全保障を考えなかった日産自動車。