日本の国家安全保障とマス・メディアに関する論文です。
「日本の国家安全保障」
80年代
田中大介
日本の国家安全保障
80年代
田中大介
序 復興・成長期の日本のマス・メディアにおける安全保障論議
第1章 講和条約についての論議
第1節 朝日新聞の提言
1950年(昭和25年)5月12日の社説、「非武装国の国際規約―講和に対する態度」(注1)において、「一方に非武装をもって平和緑地たらんことを希い、他方に国民の自主独立を侵害されないということが、一体どうして達成されるか。」と問い、非武装を選択した日本国民を「ただ連合諸国の公正と正義を信頼したからにほかならない。」、に代表されるように美辞麗句がならび、憲法前文の「平和を愛する諸国民」の引用同様、非現実な、空疎な言葉が並ぶが、8000万の人口を養うために、「全面同時の講和が切実に望ましい」と、片面講和を批判、「事の成否は、連合国がここに平和国家を創ろうとする意思と熱意にかかり、また日本国民が善意と理性を持ってこれを希望するか否かにかかる。」と投げやり気味な理想主義で締めくくられる。
注1 注1 朝日新聞朝刊 1950年5月12日
第2節 読売新聞の提言
1950年(昭和25年)5月15日の社説、「全面講和論者への警告」(注1)において、「由来現実を無視した理想論や強硬論は一時の人気に投じやすい」と、注意を促し。「理想的な形における全面講和と、単独講和を比較すればだれしも全面講和をのぞむのは当たり前である。」と、理想論に傾きやすいことを指摘し、しかし、「現下の国際情勢ならびに講和会議における日本の客観的な地位からするとこのような主張が何らの効果を生まないばかりでなく、場合によれば国家国民の立場を不利に導く恐れさえあることを強く反省しなければならない。」と、理想論の全面講和を主張する野党を批判している。こうした傾向が「共産党の思うつぼ」で、野党の全面講和論が、結果、共産主義を招くと警鐘を鳴らしている。
また、1950年8月19日の社説「中立は侵略の防衛とならない」(注2)で、社会党の掲げる中立、全面講和、軍事基地反対の平和運動を批判している。第一次世界大戦のベルギー、第二次世界大戦のベルギー、オランダの中立失敗を例に、ソ連のユーゴスラビア批判、スイス批判からソ連の敵性国家的体質から「社会党は甘い」、「赤色国家主義に対するアメリカおよび国連の行動に全面協力しなければならない。それが平和を守る道である。いわゆる中立は侵略の防衛にならない。」と断言している。
1950年の社説「敵前逃亡論を蹴飛ばせ」(注3)では、「局外中立を蹴飛ばして、われわれは合衆国を中心とする西欧民主主義の陣営にハッキリと起き上がるべきである。」、「軍事基地反対論などは、劣等国民の恐怖症状に過ぎない」、「無用なまでに空念仏の平和論にこびりつき、確かな安全保障の対策もないまま局外中立論におどらされることは、それこそソ連のもっとも喜ぶところ」と、中立を否定している。
1951年(昭和26年)9月1日講和調印に際し、「この条約によって、非武装の日本は空虚によってつくられた危険から保障されたのである。」(注4)と、条約を評価してい
る。
注1 読売新聞朝刊 1950年5月15日
注2 読売新聞朝刊 1950年8月19日
注3 読売新聞朝刊 1951年9月16日
注4 読売新聞朝刊 1951年9月1日
第3節 毎日新聞の提言
1950年9月7日の社説、「講和調印の見通しつく」(注1)において、ソ連の構成に懸念を示し、1950年9月10日の社説、「民主世界の一員として」(注2)において、「日本が共産主義の世界に入らないのはもちろんのことだが、二つの世界の間の第三の立場も、日本の排他的政治条件からして取りえないという結論に達したわけである。そういう立場は実際問題として不安定極まることが見通されたのである。」と、中立と全面講和を否定している。また、アメリカ軍の駐留を苦々しく思いながらも受け入れ、「平和や自由が乱されることから守なければならない。」と、戦争、内乱に警鐘を鳴らしている。
注1 毎日新聞朝刊 1950年9月7日
注2 毎日新聞朝刊 1950年9月10日
第2章 再軍備
第1節 読売新聞の提言
1950年(昭和25年)8月15日の社説「予備隊の憲兵化を戒む」(注1)では、政令1条と3条にある、「治安維持のための特別の必要がある場合」についての警察予備隊出動について、警察予備隊が司法警察化することへの危惧を表明している。
注1 読売新聞朝刊 1950年8月15日
第2節 田岡良一氏の主張
雑誌「時論」1949年5月号に掲載された「日本諸島の中立化」において、中立の可能性をアメリカ、ソ連双方ともに利用価値の低い日本は「実現の可能性は乏しくないと信じる」(注1)と主張している。しかし、「戦争放棄を宣言をしたからといってそれで永久中立国になったのでない」(注2)と、憲法が自衛権を否定したものでないと示唆している。
注 田岡良一 「日本の中立化」『時論』1945年5月号
1 同上 P16
2 同上 P17
第3節 伊藤正徳氏の主張
雑誌「文芸春秋」1950年11月号に掲載された「日本国防の最善の方式―日本列島の戦略的意義―」において、「国防は紙上だけでは不能」(注1)と、憲法にある戦争放棄によって国防に手をつけないのは「永世属国」と批判、独立国日本は「国防の手段がいる」(注2)と説いている。
注10 伊藤正徳 「日本国防の最善の方式-日本の戦略的意義-」
文芸春秋『文芸春秋』1950年11月号
1 同上 P33
2 同上 P37
第4節 毎日新聞の提言
1950年7月23日の社説「再軍備と義勇兵問答」(注1)において、憲法9条と憲法前文を取り上げ、再軍備や外国軍駐留を非難している。警察予備隊や海上保安庁の増強も「捨て去るべき」と一蹴している。1950年8月14日の社説「警察予備隊の発足にあたって」(注2)において、国家地方警察と自治体警察との治安維持任務の違いを問題にしている。任務の重複や方針の違いなどでの調整を要請している。また、「憲兵」化や「私兵」化に危惧を表明している。そして、警察予備隊の「あいまいさ」を訴えているところは興味深い。
注1 毎日新聞朝刊 1950年7月23日
注2 毎日新聞朝刊 1950年8月14日
第5節 オピニオン・リーダーたちの主張
上原専禄氏は著書「平和の創造」において、憲法を重視すべきとし、永世中立を主張、片面講和した日本を悼んでいる。(注1)
南原繁氏は雑誌「中央公論」1951年5月号において、「永世中立と非武装」を主張した。雑誌「改造」1950年10月号に掲載された佐藤功氏の「朝鮮動乱と憲法の前途」では、「全面講和と永世中立が正しい解答であることは疑えない。」(注2)、「なぜならひとつの世界を前提とする以上、講和の方程式としては、全面講和、安全保障の方程式としては永世中立ということは、きわめて当然な論理の帰結であるからである。」(注3)と述べている。 安部能成氏は、雑誌「世界」1950年4月号において、「絶対的戦争不介入の意味における中立よりほかにない。」(注4)と主張している。
中村哲氏は雑誌「改造」1951年6月号に掲載された「憲法遵守と講和」において、「少なくとも現在においては再軍備は日本の将来に不幸をもたらす。」(注5)と、再軍備に反対している。
向坂逸郎氏は、雑誌「中央公論」1951年9月号において、「憲法は明らかに戦争の放棄を規定しているのだから、中立を規定していると考えるほかない。」(注6)と、述べている。
笠信太郎氏は、雑誌「世界」1951年9月号に掲載された「嵐の中の講和―桑港講和と中ソ条約―」において、「今の現実の日本には、内側においても、対外関係においても、遺憾ながら現実には、できないのである」(注7)と中立を否定している。
「平和問題懇談会」は安倍能重、清水幾太郎、中野好夫、南博、宮原誠一、鵜飼信成、川島武宣、田中耕太郎、丸山真男、有沢廣巳、大内兵衛、都留重人、矢内原忠雄、笠信太郎、脇原義太郎、仁科芳雄、久野収、桑原武夫、末川博、田畑茂二郎、沼田稲次郎、名和統一、鶴見和子、宮城音弥、高木八尺、高島善哉、新村猛、田中美知太郎、田畑忍、恒藤恭、羽仁五郎、前芝確三、青山秀夫、岡本清一らで構成され、「多数講和は承諾できない」と1950年(昭和25年)1月15日に声明を出した。「平和問題懇談会」は1950年12月の雑誌「世界」で、「三たび平和について」(注8)と称して、理想主義を標榜し、各国に対しては軍事力の廃止を呼びかけ、日本の防衛に関しては非武装を訴え、身勝手な、独善的な平和主義を表明している。
注1 上原専禄 「平和の創造」
注2 南原茂 「永世中立と非武装」中央公論社『中央公論』
注3 佐藤功 「朝鮮動乱と憲法の前途」 改造社『改造』
1950年10月号 P22
注4 安部能成 「平和への念願」 岩波書店『世界』1950年10月号 P22
注5 中村哲 「憲法遵守と平和」 改造社 『改造』1951年6月号 P16
注6 向坂逸郎「人身の変化について-平和の保障-」
中央公論社『中央公論』1951年9月号 P15
注7 笠信太郎 「嵐の中の平和-桑港講和と中ソ条約-」
岩波書店 『世界』1951年9月号 P21 P30
注8 平和問題懇談会 「三たび平和について」
岩波書店『世界』1950年12月号
第3章 戦後復興期の世論調査
講和に関する世論調査
国立世論調査所による講和に関する世論調査では、講和条約に対し、満足が51%、やや満足20%、不満足12%、不明17%となっている。また、「日本がこれから独立国としてやっていくについて、不安に思うようなことはありませんか、どんなことですか」については、ソ連共産主義の問題が25%、共産党進出29%、米ソ対立20%、共産主義20%、ソ連19%、思想問題15%、国内治安19%、戦争15%、再軍備賛成7%、再軍備反対5%、不安なし19%となっている。「今後それに対してどうして行ったらよいと思いますか」では、再軍備、予備隊の拡充28%、中立、平和を守れ16%、外交をうまく、外国に訴える8%、アメリカに頼る6%となっている。(注1)
注1 国立世論調査所「講和に関する世論調査」
第4章 60年安保
第1節 朝日新聞の提言
1959年(昭和34年)4月8日の社説「安保条約改定の方向を誤るな」(注1)において、「集団的能力を発展させる」ことを、「憲法9条の規定に照らし合わせ」、「大きな問題を残す」と批判している。また、同年4月21日の社説「安保改定の根底にある事態」(注2)では、日本防衛を明記することには賛成であるが、その見返りを要求してくることには反対と、理不尽な主張が続く。同年7月24日の社説「原水爆反対運動と安保改定」(注3)では、両者をリンクさせる自民党と社会党を批判している。これは、同年7月30日の社説「安保改定を抗争の種にするな」(注4)にも言えることである。1960年の5月13日の社説「最終段階に入る安保審議に望む」(注5)では、「審議が尽くされていない」、第5条、第6条が明確でないと注意を促している。」同年6月9日の社説では、単独審議強行に反対し、6月13日の社説と6月29日の社説では「広義の安全保障」を要求するにいたった。(注6)60年安保阻止が失敗し、あきらめの情念が感じられる。しかし、再び同年7月1日の社説では安保に疑念を示すソ連の生命を掲載し、同年8月11日には「防衛力暫増より福祉急増を」と、息巻いている。(注7)
注1 朝日新聞朝刊 1959年4月8日
注2 朝日新聞朝刊 1959年4月21年
注3 朝日新聞朝刊 1959年7月24日
注4 朝日新聞朝刊 1959年7月30日
注5 朝日新聞朝刊 1960年5月13日
注6 朝日新聞朝刊 1960年6月13日、1960年6月29日
注7 朝日新聞朝刊 1960年8月11日
第2節 読売新聞の提言
1960年6月11日の社説では、ハガチー大統領秘書の乗った自動車を襲撃したデモ隊を厳しく非難し、このような事件で日本の信頼が崩れることに、遺憾の意を表している。(注1)
同年1月20日の社説では、日本の発言力が上がることを評価する一方で、「中国、ソ連を刺激する」と、懸念も表明している。(注3)同年6月19日の社説では、自衛権の解釈を明確にすべきと注文をつけ、おおむね好意的に評価しているように見受けられる。(注3)
注1 読売新聞朝刊1960年6月11日
注2 読売新聞朝刊1960年1月20日
注3 読売新聞朝刊1960年6月19日
第3節 毎日新聞の提言
1960年5月26日の社説では、反米と反岸を混同し、安保反対を唱えるものを厳しく批判(注1)、同年6月21日の社説では、安保反対デモに「高校生はデモに加わるな」と、他紙にみられない角度からとらえ、未熟な高校生が加わると冷静さがなくなる、と主張している。もっとも、高校生でない人間も単なる暴徒と化した。(注2)同年6月24日の社説、「新安保条約の発効」では、「相互防衛的性格」を問題視しているが、1978年まで合同訓練すらおこなわれなかったほど、片務的条約であった。(注3)
注1 毎日新聞朝刊1960年5月26日
注2 毎日新聞朝刊1960年6月21日
注3 毎日新聞朝刊1960年6月24日
第4節 オピニオン・リーダーの主張
中野好夫、坂本義和、日高六郎、篠原一、久野収、都留重人、丸山真男、清水幾太郎、隅谷三樹男氏らが、「安保改定構想を批判する」で、日本とアメリカによる軍事力強化を批判し、「国力不相応」とした。坂本義和氏は雑誌「世界」1959年8月号で(注1)、「中立日本の防衛構想―日米安保に代わるもの-」と題し、米英中ソ仏を除外した中立的諸国の軍隊からなる国連警察軍の平時からの日本常駐、自衛隊の縮小と国連警察軍指揮下入りを訴えている。大内兵衛氏は雑誌「世界」1960年3月号で(注2)、アメリカの軍拡の観点から、日米安全保障条約の存在を否定している。久野収氏は「世界」1960年3月号で、日米安全保障条約を、日独伊三国同盟より深い懸念を示している(注3)。清水幾太郎氏は、雑誌「世界」1959年11月号(注4)で中国の立場から安保改定を批判している。都留重人氏は「世界」1959年11月号(注5)で安保改定に反対し、福祉重視を訴えている。
注1 坂本義和 「中立日本の防衛構想-日米安保に代わるもの-」
岩波書店 『世界』1950年12月号
注2 大内兵衛 「学者 国を憂う」 岩波書店『世界』1960年3月号
注3 久野収 「軍縮の流れに逆らうもの」 岩波書店『世界』1960年3月号
注4 清水幾太郎 「日中間にこそ平和共存を」
岩波書店『世界』1959年11月号
注5 都留重人 「安保体制に代わるもの」
岩波書店『世界』1959年11月号
第5節 世論の動向
1959年9月の読売新聞の世論調査、「あなたはわが国の安全を守る方法として、次のどれが一番いいとおもいますか」について、国連軍の援助を期待する18%、わが国独力で守る13%、自衛隊強化9%、自衛隊強化と国連軍援助8%、いっさい無抵抗8%、自衛隊強化、アメリカ援助、国連軍援助6%、自衛隊強化、アメリカ援助6%、わからない26%となっている。1960年1月の朝日新聞の世論調査、「日本の安全を守るためにはいろいろな方法がありますが、次の4つではどの方法に賛成しますか」では、アメリカに頼る14%、国連に頼る24%、ソ連、中国とも仲良く8%、中立化35%、わからない21%である。(注1)
注1 読売新聞朝刊1959年9月21日
序章 70年代の激変
1970年に自動延長される日米安全保障条約に対して、ベトナム反戦運動とともに70年安保闘争が左翼学生を中心に激しく巻き起こった。
左翼学生のデモという名目の左翼暴動で死者、負傷者の数はおびただしく、欧米先進国の国防担当者は日本を低烈度紛争国、半内戦状態と認識した。
しかし、肝心の日米安全保障条約や日本の防衛、外交についてはあまり語られていない。語られているとしても極めて幼稚な理想論や、共産主義陣営のプロパガンダに感化された反米論、自衛隊廃止論がほとんどである。論壇の中心は学生運動の鎮静化やベトナム戦争をどうとらえるかに置かれていた。
学生運動も日本共産党、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)、革命的共産主義者同盟革命的マルクス・レーニン主義派(革マル派)、革命的労働者協会(革労協)、第4インターナショナル(第4インター)、を中心とした内部ゲバルト、共産主義者同士の殺し合い、内ゲバとなっていった。
1970年、池袋を歩いていた東京教育大学(現・筑波大学)の左翼、共産主義の革マル派学生が拉致され法政大学に連れていかれ気絶するまで暴行され、気絶すると水をかけられ意識を戻してから再び暴行、さらに気絶するまで暴行され気絶すると水をかけられ意識を戻して再び暴行を繰り返し、いつの間にか死んでいた。
1971年、左翼、共産主義の革マル派が「突撃隊」を編成し関西大学に侵入、左翼、共産主義の中核派の学生を鉄パイプで滅多打ちにして殺害した。また左翼、共産主義の革労協の関西大学学生が何者かに顔面の形状が無くなるまで顔面を殴られた後、鉄パイプで滅多打ちにされ死亡、死体は関西大学第一中学校の校庭の木に吊るされた。
1972年、左翼、共産主義の中核派シンパと見做された早稲田大学学生が左翼、共産主義の革マル派に襲撃され鉄パイプで滅多打ちにされ、骨が肉と皮膚から突き抜けて飛び出す状態になるまで暴行され、死体で発見された。
1975年、埼玉県川口市で左翼、共産主義の中核派の本多延嘉・書記長が左翼、共産主義の革マル派に頭部をハンマーと斧で破壊され死亡する内ゲバ事件が発生した。
1975年、川崎市職員の左翼、共産主義の革マル派女性構成員の顔面、頭部を鉄パイプで滅多打ちにして殺害する中核派による内ゲバ事件が発生した。
1977年、茨城県取手市で左翼、共産主義の笠原正義・革労協書記局長が革マル派に頭部を鉄パイプで滅多打ちにされ死亡した。
1977年、埼玉県戸田市にある印刷工場から機関紙を積載し出発した革マル派のいすゞ・エルフ・ヴァンが革労協のトラックに前後を挟まれ停止させられ、斧、ツルハシでドアを叩きドアを変形させ車外に出られなくしてからいすゞ・エルフ・ヴァン車内にガソリンを撒き、革マル派を焼死させた内ゲバ事件が発生した。
さらに琉球大学では左翼、共産主義の中核派が革マル派学生と誤認して無関係の学生を鉄パイプで滅多打ちにして殺害、朝日新聞、テレビ朝日、毎日新聞、TBSが反戦運動家と持て囃す知花昌一氏が凶器準備集合罪で逮捕されている。
繰り返される左翼、共産主義者の内ゲバ事件で、左翼、共産主義は一般から見放されていく。
共産主義者同盟赤軍派と日本共産党革命左派神奈川委員会(京浜安保共闘)が連合した連合赤軍は内部での凄惨仲間同士での殺し合いと、一般民間人女性を人質に立て籠もったあさま山荘事件を起こした。
あさま山荘事件で逮捕された左翼、共産主義の連合赤軍はブスと言われる日本共産党革命左派神奈川委員会(京浜安保共闘)の指導者、永田洋子が美人と言われる左翼、共産主義の活動家を執拗に責めいじめ、自分の顔面を自分で殴らせて顔面の形状が歪んだ状態で雪原に放置、殺した。またブスと言われる永田洋子は妊娠している左翼、共産主義の活動家に嫉妬し殺害した。永田洋子は共産主義者同盟赤軍派の森恒夫に恋愛感情を持つ左翼、共産主義者の女性活動家を亀甲縛りし海老反り状態にして吊るし拷問した後、上半身を縛った状態のまま股を広げるよう要求しているうちに殺害した。
左翼、共産主義の東アジア反日武装戦線は死者8名、重軽傷者380名の三菱重工ビル爆破事件、死者2名、重軽傷者80名の北海道庁爆破事件、三井物産、帝人、大成建設、鹿島、間組のビルを爆破、多数の負傷者を出した。さらに左翼、共産主義の東アジア反日武装戦線は天皇陛下暗殺計画、イスラエル選手団殺害計画を進めた。
日本赤軍はイスラエルのテルアビブ・ロッド空港(現・ベングリオン空港)で銃乱射、手榴弾をばら撒き28名を殺害、80名が重軽傷を負った。
日本赤軍はドバイで日本航空ボーイング747旅客機をハイジャック、リビアのベンガジ空港で日本航空ボーイング747旅客機を爆破した。
シンガポールのロイヤル・ダッチ・シェル石油の石油精製施設を爆破、在クウェート日本大使館の占拠人質事件、在ハーグ・フランス大使館の占拠人質、警察官銃撃負傷事件を起こした。また在クアラルンプール・アメリカ大使館、在クアラルンプール・スウェーデン大使館を襲撃、占拠、人質事件を起こした。
1977年9月には、日本航空ダグラスDC-8旅客機が日本赤軍にハイジャックされた。政府、福田赳夫首相は日本赤軍テロリストに屈服し、超法規的措置により囚人である日本赤軍や連合赤軍、東アジア反日武装戦線のテロリストを釈放した。
さらに身代金600万ドル(約16億円)まで支払い、テロリストを野に放ったことで世界から批判されたことに対する反省から生まれた。諸外国からは「テロリストまで輸出する」と非難される。
一方、1977年10月にルフトハンザ・ボーイング737機がPFLP(パレスチナ解放人民戦線)にハイジャックされた。犯人のPFLPテロリストは、ヨーロッパ各国に収監されている西ドイツ赤軍派(RAF)とPFLPのメンバーの釈放、身代金900万ドル(約24億円)を要求した。こうしたPFLPテロリストの要求に対し、西ドイツ政府は拒否を決断した。パイロットを殺害したテロリストが陣取るソマリア・モガディシオ空港に指揮を執る総務長官と、対テロ特殊部隊である内務省国境警備隊第9部隊(GSG-9、現・連邦警察庁GSG-9)を派遣する。
イギリス陸軍特殊空挺部隊(SAS)の支援のもと、スタン・グレネードを使用、H&K MP5機関拳銃で犯人の無力化に成功、3人を射殺、1人を逮捕した。
主要先進国の大統領、首相の記者会見では西ドイツ記者団に拍手が送られる一方、日本の記者団はブーイングされるなど、日本は国際社会から非難されまくった。
左翼、共産主義の日本赤軍はシリア影響下にあるPFLP-GC(パレスチナ解放人民戦線・総司令部派)と共闘した。日本赤軍、PFLP-GCはシリア軍特殊部隊にテロ戦術を教えられ、シリア軍特殊部隊はソ連軍の特殊任務部隊スぺズナツやソ連の情報機関・国家保安委員会からテロ戦術、特殊作戦を教えられていた。
左翼、共産主義の日本赤軍は反帝国主義国際旅団の名目でジャカルタのアメリカ大使館に迫撃砲攻撃、ローマのアメリカ大使館、イギリス大使館にロケット弾攻撃、さらにナポリのディスコに爆弾を仕掛け5人を殺害した。
左翼、共産主義者の内ゲバ事件、左翼、共産主義の東アジア反日武装戦線による連続企業爆破テロ、日本赤軍のハイジャック、大使館占拠などは左翼メディア、左翼大学教授、左翼文化人には評価されたが、一般から左翼、共産主義が嫌われる遠因となった。
80年代の安全保障と論議
第1章 79年危機と冷戦激化における日本の安全保障政策
第1節 日本における新たなる安全保障論議
1970年代に入るまでの日本の安全保障論議は、国内的なものに終始していた。日本を揺るがした1960年の60年安保、1960年代後半の70年安保論争では、おもに日米安全保障条約を存続させるか、破棄するかが議論の中心となり、その内容、そして日本の安全保障政策、ひいては日本がどうあるべきかという具体的な議論、現実的な議論、戦略はほとんど議論されなかった。そして、個々の外交政策、防衛政策についても国内的視点に終始し、個別の論議のみに終わっていた。しかし、1968年には国民総生産が西ドイツを抜いて世界第2位となり、貿易立国として世界と密接に関わらざるを得なくなっていた1970年代の日本は、一国の安全保障論議でとどまれるわけもなく、さまざまな国際情勢に関連した安全保障論議が必要になってきた。それが必要になった理由は特に1970年代に発生した国際的な案件が大きく影響し、1980年代の世界規模での冷戦激化によって、西側陣営の一員としてもはや避けられないものとなっていった。
第2節 冷戦激化に至るまで
1972年2月21日のリチャード・ニクソン大統領の訪中をはじめとする米中の接近は、それまでの戦略環境を一変させた。これまでのアメリカ・ソ連・中国の三極の、三つどもえの対立から、アメリカ・中国とソ連の対立へ大きく変化した。また、このアメリカと中国の接近は、アメリカにとって同盟国である日本の頭越しで行われ、同盟関係は国益によっては優先されないという国際情勢の厳しさを教訓として、日本に残した。
1973年10月6日にエジプトがスエズ運河を渡河、第4次中東戦争が始まる。OPEC石油輸出国機構、OAPECアラブ石油輸出国機構はイスラエルを支持するアメリカ、オランダに石油を禁輸、その他の国にも石油輸出価格を大幅に引き上げる。
アメリカ・イスラエル二重国籍のヘンリー・キッシンジャー国務長官は日本にイスラエル支持を要請する。日本はイスラエル支持と引き換えにアメリカが日本に石油を輸出してくれることを確約してくれるかヘンリー・キッシンジャー国務長官に聞くが、アメリカ・イスラエル二重国籍のヘンリー・キッシンジャー国務長官は日本へのアメリカから石油輸出は拒否した。同盟国でも国益が優先される現実を突きつけられた日本。日本はアラブ諸国にアラブ支持と引き換えに石油輸出を取り付ける。アメリカ・イスラエル二重国籍のヘンリー・キッシンジャー国務長官は激怒、日本を非難した。
アメリカはイスラエルへの軍事援助を抑え、イスラエルはフランスから兵器を輸入していたがフランスはアラブ諸国の主張を受け入れイスラエルへの兵器輸出を中止した。それ以降、アメリカがイスラエルへの軍事援助を大幅に増加させた。
M48パットン戦車、M60スーパー・パットン戦車を装備するイスラエル国防軍陸軍はオール・タンク・ドクトリンで戦車中心の装備、随伴歩兵が極めて少ない状態だったのでエジプト軍の至近距離からのAT-3対戦車ミサイル攻撃、RPG-7対戦車ロケット擲弾
攻撃で最新のM60スーパー・パットン戦車,M48パットン戦車は被害甚大となる。
マクドネル・ダグラス F-4ファントムⅡ戦闘機、マクドネル・ダグラス A-4スカイホーク攻撃機、イスラエル航空機産業 ネシェル戦闘機、ダッソー ミラージュⅢ戦闘機を装備するイスラエル国防軍航空宇宙軍もSA-2地対空ミサイル、SA-3地対空ミサイル、SA-6地対空ミサイル、SA-7地対空ミサイル、ZSU23-4自走対空機関砲により損害を受ける。シリア軍特殊部隊もシリア、イスラエル国境の拠点を確保する。
合衆国陸軍のM60スーパー・パットン戦車、M48パットン戦車のイスラエルへの無償供与、合衆国空軍に短期間配備され初期不良が無いことが確認された最新のマクドネル・ダグラス F-4EファントムⅡ戦闘機のイスラエルへの無償供与、ベトナム迷彩のままのマクドネル・ダグラス F-4ファントムⅡ戦闘機がイスラエルに無償供与されるニッケル・グラス作戦が実施されイスラエルは持ち直し、シリア軍特殊部隊が確保した拠点にイスラエル国防軍陸軍はシリア軍機甲部隊を寄せ付けずシリア軍特殊部隊が確保した拠点は陥落、イスラエル軍は対シリアに向けていた戦力も対エジプト軍に回しエジプト軍敗退・シナイ半島制圧、イスラエルは第4次中東戦争にかろうじて勝利する。
イスラエルのオール・タンク・ドクトリンの失敗で戦車不要論、対戦車ミサイル主流化論が主張されるがヨーロッパ平原、イラク、サウジ・アラビアの現実から戦車不要論は否定されていく。
ウォーターゲート事件後の辞任直前、リチャード・ニクソン大統領はイスラエルへの支援を大幅に縮小するよう指示したが、ウォーターゲート事件発生後で影響力が低下しており、ヘンリー・キッシンジャー国務長官はリチャード・ニクソン大統領のイスラエルへの支援大幅縮小指示を無視するよう国務省に指示した。副大統領から大統領になったジェラルド・フォード大統領は支持基盤が弱く国家安全保障、外交、軍事についてヘンリー・キッシンジャー国務長官の指示を仰いだ。
一方で、1972年5月22日のSALT(戦略兵器削減交渉)調印はアメリカとソ連の対立を緊張緩和の方向へ向けさせると一般では考えられ、1973年3月29日の南ベトナムからのアメリカ軍撤退完了、そして1975年のベトナム戦争終結というながれも緊張緩和を促進させるというふうにとらえられた。
1975年のCSCE(全欧安保協力会議)発足も、米ソ冷戦緩和を予感させた。1978年の『昭和53年版日本の防衛(防衛白書)』においても、「2超大国の対立という戦後の基本的構造は変わっていない」ものの、「米ソ間の平和共存、中ソの分裂」という大きな変化が見られると指摘している。北東アジアにおいては、「米中ソ3局対立で紛争おこりにくい(均衡成立)」という記述が見られ、同様に翌年、1979年の『昭和54年度版日本の防衛(防衛白書)』においても、「(防衛計画の)大綱が前提とする情勢の基調が大きく変化したとはいえない」との表現で示した通り、防衛庁に危機感は感じられない。
第3節 東側の攻勢と79年危機
東アジアにおいて1975年8月にラオス人民民主主義共和国、よく1976年7月にはベトナム社会主義共和国が相次いで誕生、インドシナにおいて親ソ連の社会主義政権が大きな存在を示した。特にベトナムへは、極東ソ連沿海州から日本海、対馬海峡、東シナ海を通って海軍、空軍がダナン、カムラン湾に派遣されるなど、ソ連のプレゼンスが強まった。
そして、カンボジアでは1976年4月にキュー・サムファンを元首、ポル・ポトを首相とする毛沢東主義(親中国派)の「民主カンプチア共和国」が誕生、ベトナム、カンボジアと、アメリカと関わりの深い東南アジア諸国連合(ASEAN)との三極の緊張状態が始まったのであった。そして、極東ソ連軍・ウラジオストクに、VTOL(垂直離着陸機)30機搭載のキエフ級空母「ミンスク」、カラ級巡洋艦「ペトロパウロフスク」、イワン・ロゴフ級揚陸強襲艦「イワン・ロゴフ」等が回航され、戦力が増強された。また1978年には、1960年以来18年ぶりに国後島、択捉島にソ連地上軍(旅団規模、5000人)が配備されたのが確認されるととともに、ミコヤンMIG-23戦闘機(初飛行1967年、自重10,2トン、推力127kN×1)の飛行隊も配備されるなど、北海道を中心とした日本列島における露骨な脅威となった(注1)。
アフリカでは1974年9月にエチオピア革命によってハイレセラシエ皇帝の政権が終焉しメンギスツ政権が誕生、次々と親ソ連の政策を実施し、1978年に共産主義ソ連とエチオピアの間で友好・協力条約が締結された。そして、この親ソ連エチオピアと親アメリカ的であるソマリア、西ソマリア解放戦線がオガデン地方をめぐって紛争となり、東部アフリカでの最大の危機要因となったほか、アラビア海を望む「アフリカの角」の主導権を米ソのどちらが握るかが焦点となった。
アフリカ南部のアンゴラではMPLA(アンゴラ人民解放運動)とFNLA(アンゴラ解放民族戦線)、UNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)による内戦が勃発した。共産主ソ連は1976年10月にアンゴラ(MPLAとのあいだで)間で友好・協力条約を締結、軍事援助を開始、親ソ連の共産主義キュ-バは軍を派遣した。それに対し、中国はFNLA,UNITAに軍事援助し、さらに国境付近に迫る共産主義キュ-バ軍に危機感を抱いた南アフリカ共和国もFNLA,UNITAに軍事援助するとともに、南アフリカ共和国自らも直接軍事介入を行った。アメリカも一時期までFNLA,UNITAに援助していた。
また、モザンビ-クでは親ソ連派のFRELIMO(モザンビ-ク解放戦線)が政権につき、モザンビ-ク人民共和国が誕生、1977年3月には共産主義ソ連とモザンビーク人民共和国は友好・協力条約を締結し関係を深めていった。
中東・西アジアでも緊張が激化していく。南イエメン(イエメン民主人民共和国)の親ソ連化に加え、アフガニスタンでは1978年4月のサウル革命によって人民民主主義党書記長タラキの左翼・親ソ連政権が誕生する。
東側陣営・共産主義勢力の攻勢が続くなか、西側陣営にとっての中東における砦であり、「ペルシャ湾の憲兵」とよばれたイラン・パーレビ国王の政権は、当時最新鋭の海軍戦闘機グラマンF-14Aトムキャット戦闘機(初飛行1970年、自重18,2トン、推力93kN×2)を購入し、同じく当時最強の駆逐艦
キッド級駆逐艦
満載排水量・9574トン、
Mk26発射機2基RIM-66スタンダードMR艦対空ミサイル80発、
Mk141発射機2基RGM-84ハープーン艦対艦ミサイル8発、
Mk15ファランクス20mm近接防御武器システム2基、
Mk324短魚雷発射管2基Mk46魚雷6発、
船価3億3000万ドル
を
4隻発注するなど、国家防衛体制をさらに親アメリカ、西側陣営寄りに傾けていた。
しかし、「人権外交」を標榜するジミー・カーター政権によって人権侵害を指摘され、アメリカによる政権維持の後ろ盾はあやうくなっていた。
そして貧富の格差拡大とアメリカ中央情報庁CIAとイスラエルの諜報特務庁モサドから指導されていた秘密警察サバクは過酷な反政府活動取り締まりだけにとどまらず、一般国民へも人権侵害、根拠不明確な逮捕、厳しい尋問、拷問を実施、イラン国民の反発は日増しに高まり、ついには1978年1月にコム暴動が発生、イスラム反政府運動が活発化、パーレビ国王政権は危機に瀕していく。
ヨ-ロッパにおいてソ連は、中距離核戦力(INF)を旧式のSS-4弾道ミサイル,SS-5弾道ミサイルから移動式3弾頭中距離弾道ミサイルのSS-20弾道ミサイルに更新、そしてT-72戦車、ミルMi-24攻撃ヘリコプターも配備され、ヨ-ロッパ平原における戦争に備えた戦力増強が進められた。
さらにMIRV化されたSS-17大陸間弾道ミサイルICBM、SS-18大陸間弾道ミサイルICBM、ツポレフTu-22「バック・ファイアー」爆撃機の配備などの戦略兵器の増強が続いた。
共産主義ソ連海軍は垂直離着陸機VTOL30機搭載のキエフ級空母2隻の配備と建造中の1隻が確認されたほか、カラ級巡洋艦、クリヴァック級駆逐艦、モスクワ級ヘリ空母、スホーイSu-24戦闘爆撃機、ミコヤンMiG-23戦闘機/ミコヤンMiG-27戦闘攻撃機の配備が急速なスピ-ドで進んだ。ソブレメンヌイ級駆逐艦、ウダロイ級駆逐艦、オスカーⅡ級巡航ミサイル搭載原子力潜水艦の就役も間近だった。
ソブレメンヌイ級艦隊防空ミサイル駆逐艦は1番艦が1980年に就役し、18隻が就役したが、12隻が退役した。満載排水量8067トン、蒸気タービン推進、兵装は130mm連装砲2門、SA-7艦対空ミサイル単装発射機2基またはSA-N-12艦対艦ミサイル単装発射機2基、SS-N-22艦対艦ミサイル8発、30mm近接防御武器システム4基、533mm5連装魚雷発射管2基、搭載航空機はカモフKa-27ヘリコプター1機である。SS-N-22艦対艦ミサイル(NATOコード:サンバーン)は、マッハ2のスピードで巡航し、迎撃されにくいよう超低空をS字状に飛行するもので、西側諸国の最新鋭迎撃システムでも迎撃困難である。ソブレメンヌイ級艦隊防空ミサイル駆逐艦の攻撃能力は高いが、基本設計は1970年代のもので、電子戦装置など電子装備は古い。(注3)
ウダロイ級駆逐艦は、1980年に1番艦が就役し、13隻が就役したが、現役は8隻であり、そのうち半数が太平洋艦隊の所属である。満載排水量は8500トン、ガス・タービン推進、兵装は100mm単装砲2門、SS-N-12艦対潜ロケット16発、SA-N-9短距離艦対空ミサイル64発、30mm近接防御武器システム4基、12連装対潜ロケット発射機2基、533mm4連装魚雷発射管2基、搭載航空機はKa-27ヘリコプター2機である。対潜戦に重きを置いた艦で、個艦防空に非常に力が注がれている。
クリヴァック級フリゲートは1970年に1番艦が就役し、41隻が建造された。満載排水量は3560トン、ガス・タービン推進、兵装は100mm単装砲1門、SA-N-4短距離艦対空ミサイル連装発射機1基、12連装対潜ロケット発射機2基、533mm4連装魚雷発射管2基、30mm近接防御武器システム2基である。小型艦ながら対潜装備と個艦防空は充実している。
オスカーⅡ級巡航ミサイル搭載原子力潜水艦は、1980年に1番艦が就役し、1997年までに11隻が就役したが、現役は6隻で、太平洋艦隊には4隻が配備されている。搭載巡航ミサイルは、西側諸国の艦隊攻撃を想定した対艦巡航ミサイルである。水中排水量は18300トン、原子力蒸気タービン推進、水中速力28ノット、兵装は対艦巡航ミサイルSS-N-19潜対艦ミサイル24発、650mm魚雷発射管2門、533mm魚雷発射管4門である。
スホーイ Su-24戦闘爆撃機(初飛行1970年、自重22320kg、推力109,8kN×2)、スホーイ Su-25攻撃機(初飛行1975年、自重9500kg、推力44,2kN、固定武装30mm機関砲×2、ハード・ポイント10か所)、ミコヤン MiG-23戦闘機/MiG-27戦闘攻撃機(初飛行1967年、自重10200kg、推力127,49kN×1)、ツポレフ Tu―95爆撃機の配備が進んだ。
ソ連空軍とソ連防空軍ではスホーイ Su-24戦闘爆撃機(初飛行1970年、自重22320kg、推力109,8kN×2)、ミコヤン MiG-23戦闘機/MiG-27戦闘攻撃機(初飛行1967年、自重10200kg、推力127,49kN×1)、
ミコヤン MiG-25戦闘機(初飛行1964年、自重2000kg、推力109,76kN×1)、ミコヤン MiG-27戦闘攻撃機(初飛行1967年、自重10200kg、推力112,7kN×1)、スホーイ Su-25攻撃機(初飛行1975年、自重9500kg、推力44,2kNの配備が進み、ミコヤン MiG-29戦闘機(初飛行1977年、自重8175kg、推力81,4kN×2)、の配備も始まり、ミコヤン MiG-31戦闘機(初飛行1979年、自重21821kg、推力151,9kN×2)が初飛行し配備が間近、スホーイ Su-27戦闘機(初飛行1981年、自重17700kg、推力122,6kN×2)も初飛行間近だった。ツポレフTu-22M-3「バック・ファイアー」爆撃機、ツポレフ Tu-95「ベア」爆撃機も配備された。
第1章 79年危機と冷戦激化における日本の安全保障政策
このように共産主義ソ連の攻勢が続いていた1970年代後半であったが、さらなる混迷が1970年代最後の年、1979年に大挙して訪れることになる。
1979年1月、ベトナム軍はカンボジアに侵攻し、親中国派ポル・ポト政権「民主カンプチア」を討伐、カンボジアにはベトナムの傀儡であるヘン・サムリン政権が発足する。
そして、2月17日にはこのベトナムによるカンボジア侵攻に対して、中国が「懲罰」と称してベトナムに侵攻、中越戦争が勃発する。
中国軍はベトナムへの「懲罰」が終了すると早期にベトナムから撤退、中越戦争は終了する。親中国ポル・ポト派「民主カンプチア」政権は国民を200万人虐殺していたことが判明する。
中国は討伐された親中国「民主カンプチア」政権を率いたポル・ポト派を支援、ゲリラ活動を行わせる。
親中国「民主カンプチア」ポル・ポト派はこれにより共産主義ソ連とベトナムに支援されたヘン・サムリン政権と本格的な戦闘が勃発する。さらにソン・サン派、シアヌーク派を交えた内戦となる。
中国は1974年1月17日、ベトナム戦争で苦しむ南ベトナムが実効支配している西沙諸島に中国人民解放軍海軍を侵攻させる。中国人民解放軍海軍は南ベトナム海軍の駆逐艦1隻を撃沈し、中国は西沙諸島を占領した。
中国は1988年1月、中国人民解放軍海軍の艦船10隻以上を南沙諸島に派遣する。
1988年3月、南沙諸島ジョンソン・サウス礁(赤爪礁)で中国人民解放軍海軍とベトナム海軍が交戦、ベトナム海軍のポルノクニイB級揚陸艦1隻が中国人民解放軍海軍の攻撃を受けて沈没、60人以上が死亡する。
圧倒的戦力を誇る中国にベトナムは降伏、中国は南沙諸島ジョンソン・サウス礁(赤爪礁)を占領する。
中国とベトナムの一触即発は続く。
そして中東では1979年2月1日、亡命中のイスラム指導者・ホメイニ師が帰国、イスラム革命が発生し、これによって政権基盤が非常に危うくなっていた親アメリカのパ-レビ国王政権がついに崩壊、イラン・イスラム共和国が誕生した。
このホメイニ師率いる革命政権は、1979年3月にはイギリスと関わりの深い中央条約機構(CENTO)を脱退し、これによって危機に晒されていた中東、中東におけるアメリカおよび西側陣営の拠点は明確に失われた。
さらに1979年11月4日、在テヘランのアメリカ大使館は、パーレビ国王の病気治療をアメリカが受け入れることに反対するホメイニ支持のイスラム神学生過激派によって占拠される。この在テヘラン・アメリカ大使館人質占拠事件を最高指導者のホメイニ師が擁護・支持したことは、事件解決に多大な時間を要することとともに、新しく誕生した「イラン・イスラム共和国」との関係が以前の親アメリカ親西側の王制イランとは全く相容れない、敵対的な関係となることを決定づけた。
この事件の16日後である1979年11月20日には、イランにかわる中東の西側陣営の拠点となりつつあったサウジ・アラビアでも熱狂的なイスラム教信奉者によるイスラム暴動が発生した。メッカのモスクがイスラム原理主義者によって占拠され、巡礼者が人質に取られるという事件が発生し、イランと同様、サウジ・アラビアにおいても内政の安定に不安がもたれた。
そして、1979年12月25日にはアフガニスタンに共産主義ソ連が侵攻、中東および南アジア、ペルシャ湾岸のイランとインド洋沿岸のパキスタンを牽制し、インド洋からアラビア海、ペルシャ湾までをうかがうことのできるアフガニスタンを完全に手中に収めた。
西側陣営の勢力圏の衰退はアメリカの裏庭である中米・カリブ海でも進んでいた。1979年3月、グレナダの親アメリカ政権が革命により、親ソ連・親キュ-バの左翼モーリス・ビショップ政権に代わり、キュ-バからキューバ正規軍およびキューバ軍事顧問団の派遣、軍事及び民生の援助が与えられた。
1979年7月にはニカラグアにおいて、共産主義マルクス・レーニン主義のサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が親米ソモサ政権から政権を奪取した。
この共産主義サンディニスタ政権もソ連、キューバから軍事支援、経済支援を受け反アメリカ、親ソ連色を鮮明にした。
そしてエル・サルバドルにおいても親米ロメロ政権が崩壊後、右派および軍部と左翼ゲリラのファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)の内戦が勃発した。こうして西側陣営、特にアメリカは勢力圏が事実上縮小、新たなる対応を迫られた。
以上のように1980年代を迎える直前に各陣営の勢力図は大きく書き換えられることとなった。
極東・東アジアではソ連の大幅な勢力圏の拡大、大軍拡があった。
このことは米中接近による勢力均衡だけでなく、日米同盟の強化、在日アメリカ軍の増強とさらに踏み出したものが必要であることを認識させた。
中東・アフリカではアフガニスタン、南イエメン、エチオピアが共産主義の東側陣営となり、イラン、ソマリアは不安定要因となった。
注1 防衛庁『昭和53年版 日本の防衛』 第1部 国際軍事情勢