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さまよっていた自民党

1987年、就職情報誌「リクルート」、転職情報誌「とらばーゆ」などを発行する出版社リクルート社の関連不動産子会社リクルート・コスモス社の未上場株式譲渡をめぐる政治疑獄は政治資金問題に発展し、政治資金問題だけにとどまらず騒動が続いた。

 

多額の政治資金を必要とする選挙制度、中選挙区制(1選挙区から多数の被選挙人を選ぶ)に問題があるという議論になり、新たなる選挙制度を模索する事態に至った。

 

自由民主党の最大の派閥・竹下派(経世会)の小沢一郎氏、羽田孜氏らは小選挙区制(1選挙区から被選挙者1人を選ぶ)を採用するよう強く主張した。

 

しかし、自民党総裁・宮沢喜一氏ら自民党執行部、竹下派の大多数は、選挙制度改変は断念し、他の手段による政治改革を目指し

た。

 

このことに反発した小沢氏や羽田氏は経世会・竹下派を離れ、21世紀へ向けて政治改革をめざす少数派グループ「改革フォーラム21」を結成し、目指すとメザシをかけメザシを食べる駄洒落パフォーマンスで小選挙区制を主張した。

 

 

 6月13日、野党は衆議院において内閣不信任案を提出した。自民党は過半数を握っており、本来ならこの不信任案は否決されるはずであった。

 

しかし小沢氏、羽田氏らのグループが議会を欠席し、不信任案は成立した。

 

宮沢喜一内閣は衆議院を解散し、総選挙にうってでることとなった。

 

6月23日小沢氏、羽田氏らは自民党を離れ、新生党を結成、また武村正義氏らの自民党所属グループも自民党を脱党、新党さきがけを結成した。

 

 

 選挙は自民党が過半数を握るかどうかの激戦となり、空前の政治改革連呼選挙となった。

 

結果は自民党が223議席と過半数を割るものとなり、久々の連立政権が模索された。また、常に自民党の半数の議席を確保していた第一野党・社会党は、第一野党の座はかろうじてまもりきったものの、140議席から70議席へと議席を半減させるという敗北となった。

 

一方で新生党は現役30議席に満たなかったところから一気に56議席を獲得、発言力をいっそう強いものにした。

 

 よみうりテレビの選挙速報臨時特別番組でのインタビューにおいて神戸大学教授の五百頭旗真氏が、自民党が苦境の中、比較的善戦したことについて「残念」そうな表情を出し、

 

白鳳大学の福岡政行教授も「皆さんの力で日本の政治を変えましょうと」と呼びかけ、自民党に批判的態度をとるなど、

 

自民党が最大議席を穫得しながら自民党主導の政権誕生は困難な情勢となっていた。

 

こうした状況下で自民党は日本新党、新党さきがけとの連立を目指し協議に入っていたが、自民党批判の空気を読み取った両党は協議を打ち切り、結局は破談となり、非自民党連立政権が決定的となった。

 

そして、自民党批判の空気を感じ取っていた議員が続々と自民党を離れた。

 

竹下派の有力政治家・橋本龍太郎氏と同じ選挙区で長年のライバル関係であった加藤六月氏や、太田誠一氏、西岡武夫氏など有力議員が沈没する船から逃げ出すネズミのように、自民党を離れ新生党へと入党した。

 

こうして非自民連立政権は誕生した。

 

 

過半数に近い223議席を取りながら下野することになった自民党。

 

自民党の議員は

 

「もう保守の時代は終わった。」

 

「これからはリベラルの時代だ。」

 

など的外れな言葉を口にした。

 

自民党には保守思想の政治家もいるが、リベラル思想の政治家もかなり多い。

 

左翼(革新)ではない奴は保守という思い込みがあった日本のマスコミと学者だった。

 

自民党の政治家もそれに影響されていた。

 

左翼(革新)でないから自分は保守政治家と思い込む自民党政治家は多かった。

 

 

保守と革新(左翼)に分けられた戦後の日本。

 

革新(左翼)は露骨に反国家・反体制で共産主義陣営を利することばかりした。

 

国内冷戦が続いた日本。

 

 

 

自民党の宮澤喜一・総裁は当選できた自民党衆議院議員からも猛烈な批判にさらされた。

 

自民党の宮澤喜一・総裁は政治動向を読めず、小沢一郎に一方的にやられてしまった。

 

金丸信、竹下登という金権政治家の正当な後継者、金銭欲と権力欲しかない小沢一郎は左翼マスコミが嫌いそうだが、権力を誇示して怖かったり、いろいろな背景の怖さがあったので左翼マスコミも批判しにくそうだった。

 

そんな小沢一郎、自民党を敗北に追い込んだという理由だけで左翼マスコミは小沢一郎を持ち上げ始めた。