日本の国家安全保障90年代 81

国家安全保障 マス・メディアにおける論議 1990年代

 

 

 

オピニオン・リーダーたちの安全保障論 1990年代

 

 

 

 

 

 

 

小和田恒・外務省事務次官の主張

 

 

 雑誌「プレジデント」1993年6月号で、

 

「日本が今後国際社会とどう関わっていくべきかという問題なのですが、

 

 第一は、終戦直後に多くの日本人が考えたように

 

 『清く貧しく美しく』

 

 生きる生き方です。

 

 国際的な貢献、あるいは国際秩序の形成に責任あるメジャープレーヤー

 

 として行動しない、

 

 という決意をする生き方です。

 

 そういう国家としての生き方は理論的にはあり得るでしょう。

 

 しかし私は現在の日本は既にそれはあまりに大きくなってしまっているので、

 

 これは実際には無理な選択肢ではないかと思います。」

 

 

 と安全保障にまったく力を入れない政策を否定しつつ、

 

 

「二つ目は日本が普通の国になるということです。

 

 普通の国という意味は、

 

 アメリカやヨーロッパの国々と同じようにいろいろな形で

 

 バランスのとれた国家をめざすということです。

 

 その場合は国連を中心とした国際社会のためならば、

 

 軍事的な貢献も含めて仲間の諸国と同じような

 

 協力と貢献をすることが当然期待されることになるでしょう。」

 

 

 と普通の国、外交に軍事力を行使することにも肯定的な姿勢を示さず、

 

 

「三番目は国際秩序の形成強化に日本として関わらないというのではなく、

 

 あくまでも関わるんだという姿勢を明確に持ちつつも、

 

 ただ自分の国の行き方として、

 

 良い意味での『ハンディキャップ国家』になるという選択です。

 

 この場合、日本は過去の自己の行動や国民の信条として、

 

 日本自身が属する共同体たる国際社会の共同の利益のためであっても、

 

 “特定の行動”には参加しませんということを国家として明確にするわけです。

 

 しかし共同体の一員として責任を果たすため、

 

 他の分野でそれを補って余りある犠牲を払うことを求められるでしょう」

 

 

 と軍事力を否定した外交、国際貢献によって、

 

 日本の国際的な地位向上、国益を追求する姿勢を示している。

 

 

 軍事力を否定して国益を追求できる国際環境は現在のところ存在していないので、

 

 この「ハンディキャップ国家」は

 

 机上の空論、従来の小切手外交、金だけ外交、経済だけ外交と何ら変わりないだろう。

 

 

 

 

 

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