日本の国家安全保障とマス・メディアに関する論文です。

 

「日本の国家安全保障」

      80年代

 

         田中大介

 

  日本の国家安全保障 

           80年代

 

 

 

 

                     田中大介

 

 

 

 

 

 

序    復興・成長期の日本のマス・メディアにおける安全保障論議

 

 

 

 

 

第1章    講和条約についての論議

 

第1節    朝日新聞の提言

 

 1950年(昭和25年)5月12日の社説、「非武装国の国際規約―講和に対する態度」(注1)において、「一方に非武装をもって平和緑地たらんことを希い、他方に国民の自主独立を侵害されないということが、一体どうして達成されるか。」と問い、非武装を選択した日本国民を「ただ連合諸国の公正と正義を信頼したからにほかならない。」、に代表されるように美辞麗句がならび、憲法前文の「平和を愛する諸国民」の引用同様、非現実な、空疎な言葉が並ぶが、8000万の人口を養うために、「全面同時の講和が切実に望ましい」と、片面講和を批判、「事の成否は、連合国がここに平和国家を創ろうとする意思と熱意にかかり、また日本国民が善意と理性を持ってこれを希望するか否かにかかる。」と投げやり気味な理想主義で締めくくられる。

 

注1 注1  朝日新聞朝刊 1950年5月12日

 

 

第2節    読売新聞の提言

 

 1950年(昭和25年)5月15日の社説、「全面講和論者への警告」(注1)において、「由来現実を無視した理想論や強硬論は一時の人気に投じやすい」と、注意を促し。「理想的な形における全面講和と、単独講和を比較すればだれしも全面講和をのぞむのは当たり前である。」と、理想論に傾きやすいことを指摘し、しかし、「現下の国際情勢ならびに講和会議における日本の客観的な地位からするとこのような主張が何らの効果を生まないばかりでなく、場合によれば国家国民の立場を不利に導く恐れさえあることを強く反省しなければならない。」と、理想論の全面講和を主張する野党を批判している。こうした傾向が「共産党の思うつぼ」で、野党の全面講和論が、結果、共産主義を招くと警鐘を鳴らしている。

 また、1950年8月19日の社説「中立は侵略の防衛とならない」(注2)で、社会党の掲げる中立、全面講和、軍事基地反対の平和運動を批判している。第一次世界大戦のベルギー、第二次世界大戦のベルギー、オランダの中立失敗を例に、ソ連のユーゴスラビア批判、スイス批判からソ連の敵性国家的体質から「社会党は甘い」、「赤色国家主義に対するアメリカおよび国連の行動に全面協力しなければならない。それが平和を守る道である。いわゆる中立は侵略の防衛にならない。」と断言している。

 1950年の社説「敵前逃亡論を蹴飛ばせ」(注3)では、「局外中立を蹴飛ばして、われわれは合衆国を中心とする西欧民主主義の陣営にハッキリと起き上がるべきである。」、「軍事基地反対論などは、劣等国民の恐怖症状に過ぎない」、「無用なまでに空念仏の平和論にこびりつき、確かな安全保障の対策もないまま局外中立論におどらされることは、それこそソ連のもっとも喜ぶところ」と、中立を否定している。

 1951年(昭和26年)9月1日講和調印に際し、「この条約によって、非武装の日本は空虚によってつくられた危険から保障されたのである。」(注4)と、条約を評価してい

る。

 

注1  読売新聞朝刊 1950年5月15日

注2  読売新聞朝刊 1950年8月19日

注3  読売新聞朝刊 1951年9月16日

注4  読売新聞朝刊 1951年9月1日

 

 

第3節    毎日新聞の提言

 

 1950年9月7日の社説、「講和調印の見通しつく」(注1)において、ソ連の構成に懸念を示し、1950年9月10日の社説、「民主世界の一員として」(注2)において、「日本が共産主義の世界に入らないのはもちろんのことだが、二つの世界の間の第三の立場も、日本の排他的政治条件からして取りえないという結論に達したわけである。そういう立場は実際問題として不安定極まることが見通されたのである。」と、中立と全面講和を否定している。また、アメリカ軍の駐留を苦々しく思いながらも受け入れ、「平和や自由が乱されることから守なければならない。」と、戦争、内乱に警鐘を鳴らしている。

 

注1  毎日新聞朝刊 1950年9月7日

注2  毎日新聞朝刊 1950年9月10日

 

 

 

第2章    再軍備

             

第1節    読売新聞の提言

 

 1950年(昭和25年)8月15日の社説「予備隊の憲兵化を戒む」(注1)では、政令1条と3条にある、「治安維持のための特別の必要がある場合」についての警察予備隊出動について、警察予備隊が司法警察化することへの危惧を表明している。

 

注1  読売新聞朝刊 1950年8月15日

 

 

第2節 田岡良一氏の主張

 

 雑誌「時論」1949年5月号に掲載された「日本諸島の中立化」において、中立の可能性をアメリカ、ソ連双方ともに利用価値の低い日本は「実現の可能性は乏しくないと信じる」(注1)と主張している。しかし、「戦争放棄を宣言をしたからといってそれで永久中立国になったのでない」(注2)と、憲法が自衛権を否定したものでないと示唆している。

 

注  田岡良一 「日本の中立化」『時論』1945年5月号 

    1 同上 P16

    2 同上 P17

 

 

第3節    伊藤正徳氏の主張

 

 雑誌「文芸春秋」1950年11月号に掲載された「日本国防の最善の方式―日本列島の戦略的意義―」において、「国防は紙上だけでは不能」(注1)と、憲法にある戦争放棄によって国防に手をつけないのは「永世属国」と批判、独立国日本は「国防の手段がいる」(注2)と説いている。

 

注10 伊藤正徳 「日本国防の最善の方式-日本の戦略的意義-」

    文芸春秋『文芸春秋』1950年11月号

1 同上        P33

2 同上        P37

 

 

第4節    毎日新聞の提言

 

 1950年7月23日の社説「再軍備と義勇兵問答」(注1)において、憲法9条と憲法前文を取り上げ、再軍備や外国軍駐留を非難している。警察予備隊や海上保安庁の増強も「捨て去るべき」と一蹴している。1950年8月14日の社説「警察予備隊の発足にあたって」(注2)において、国家地方警察と自治体警察との治安維持任務の違いを問題にしている。任務の重複や方針の違いなどでの調整を要請している。また、「憲兵」化や「私兵」化に危惧を表明している。そして、警察予備隊の「あいまいさ」を訴えているところは興味深い。

 

注1 毎日新聞朝刊 1950年7月23日

注2 毎日新聞朝刊 1950年8月14日

 

 

第5節    オピニオン・リーダーたちの主張

 

 上原専禄氏は著書「平和の創造」において、憲法を重視すべきとし、永世中立を主張、片面講和した日本を悼んでいる。(注1)

 南原繁氏は雑誌「中央公論」1951年5月号において、「永世中立と非武装」を主張した。雑誌「改造」1950年10月号に掲載された佐藤功氏の「朝鮮動乱と憲法の前途」では、「全面講和と永世中立が正しい解答であることは疑えない。」(注2)、「なぜならひとつの世界を前提とする以上、講和の方程式としては、全面講和、安全保障の方程式としては永世中立ということは、きわめて当然な論理の帰結であるからである。」(注3)と述べている。 安部能成氏は、雑誌「世界」1950年4月号において、「絶対的戦争不介入の意味における中立よりほかにない。」(注4)と主張している。

 中村哲氏は雑誌「改造」1951年6月号に掲載された「憲法遵守と講和」において、「少なくとも現在においては再軍備は日本の将来に不幸をもたらす。」(注5)と、再軍備に反対している。

 向坂逸郎氏は、雑誌「中央公論」1951年9月号において、「憲法は明らかに戦争の放棄を規定しているのだから、中立を規定していると考えるほかない。」(注6)と、述べている。

 笠信太郎氏は、雑誌「世界」1951年9月号に掲載された「嵐の中の講和―桑港講和と中ソ条約―」において、「今の現実の日本には、内側においても、対外関係においても、遺憾ながら現実には、できないのである」(注7)と中立を否定している。

 「平和問題懇談会」は安倍能重、清水幾太郎、中野好夫、南博、宮原誠一、鵜飼信成、川島武宣、田中耕太郎、丸山真男、有沢廣巳、大内兵衛、都留重人、矢内原忠雄、笠信太郎、脇原義太郎、仁科芳雄、久野収、桑原武夫、末川博、田畑茂二郎、沼田稲次郎、名和統一、鶴見和子、宮城音弥、高木八尺、高島善哉、新村猛、田中美知太郎、田畑忍、恒藤恭、羽仁五郎、前芝確三、青山秀夫、岡本清一らで構成され、「多数講和は承諾できない」と1950年(昭和25年)1月15日に声明を出した。「平和問題懇談会」は1950年12月の雑誌「世界」で、「三たび平和について」(注8)と称して、理想主義を標榜し、各国に対しては軍事力の廃止を呼びかけ、日本の防衛に関しては非武装を訴え、身勝手な、独善的な平和主義を表明している。

 

注1 上原専禄 「平和の創造」

注2 南原茂 「永世中立と非武装」中央公論社『中央公論』

注3 佐藤功 「朝鮮動乱と憲法の前途」  改造社『改造』

    1950年10月号 P22

注4 安部能成 「平和への念願」 岩波書店『世界』1950年10月号 P22

注5 中村哲 「憲法遵守と平和」 改造社 『改造』1951年6月号 P16

注6 向坂逸郎「人身の変化について-平和の保障-」

中央公論社『中央公論』1951年9月号 P15

 

注7 笠信太郎 「嵐の中の平和-桑港講和と中ソ条約-」

    岩波書店 『世界』1951年9月号 P21 P30

注8 平和問題懇談会 「三たび平和について」

    岩波書店『世界』1950年12月号

 

 

第3章     戦後復興期の世論調査

 

              講和に関する世論調査

 

 国立世論調査所による講和に関する世論調査では、講和条約に対し、満足が51%、やや満足20%、不満足12%、不明17%となっている。また、「日本がこれから独立国としてやっていくについて、不安に思うようなことはありませんか、どんなことですか」については、ソ連共産主義の問題が25%、共産党進出29%、米ソ対立20%、共産主義20%、ソ連19%、思想問題15%、国内治安19%、戦争15%、再軍備賛成7%、再軍備反対5%、不安なし19%となっている。「今後それに対してどうして行ったらよいと思いますか」では、再軍備、予備隊の拡充28%、中立、平和を守れ16%、外交をうまく、外国に訴える8%、アメリカに頼る6%となっている。(注1)

 

注1 国立世論調査所「講和に関する世論調査」

 

第4章 60年安保

 

第1節    朝日新聞の提言

 

 1959年(昭和34年)4月8日の社説「安保条約改定の方向を誤るな」(注1)において、「集団的能力を発展させる」ことを、「憲法9条の規定に照らし合わせ」、「大きな問題を残す」と批判している。また、同年4月21日の社説「安保改定の根底にある事態」(注2)では、日本防衛を明記することには賛成であるが、その見返りを要求してくることには反対と、理不尽な主張が続く。同年7月24日の社説「原水爆反対運動と安保改定」(注3)では、両者をリンクさせる自民党と社会党を批判している。これは、同年7月30日の社説「安保改定を抗争の種にするな」(注4)にも言えることである。1960年の5月13日の社説「最終段階に入る安保審議に望む」(注5)では、「審議が尽くされていない」、第5条、第6条が明確でないと注意を促している。」同年6月9日の社説では、単独審議強行に反対し、6月13日の社説と6月29日の社説では「広義の安全保障」を要求するにいたった。(注6)60年安保阻止が失敗し、あきらめの情念が感じられる。しかし、再び同年7月1日の社説では安保に疑念を示すソ連の生命を掲載し、同年8月11日には「防衛力暫増より福祉急増を」と、息巻いている。(注7)

 

注1 朝日新聞朝刊 1959年4月8日

注2 朝日新聞朝刊 1959年4月21年

注3 朝日新聞朝刊 1959年7月24日

注4 朝日新聞朝刊 1959年7月30日

注5 朝日新聞朝刊 1960年5月13日

注6 朝日新聞朝刊 1960年6月13日、1960年6月29日

注7 朝日新聞朝刊 1960年8月11日

 

 

第2節    読売新聞の提言

 

 1960年6月11日の社説では、ハガチー大統領秘書の乗った自動車を襲撃したデモ隊を厳しく非難し、このような事件で日本の信頼が崩れることに、遺憾の意を表している。(注1)

 同年1月20日の社説では、日本の発言力が上がることを評価する一方で、「中国、ソ連を刺激する」と、懸念も表明している。(注3)同年6月19日の社説では、自衛権の解釈を明確にすべきと注文をつけ、おおむね好意的に評価しているように見受けられる。(注3)

 

注1 読売新聞朝刊1960年6月11日

注2 読売新聞朝刊1960年1月20日

注3 読売新聞朝刊1960年6月19日

 

 第3節 毎日新聞の提言

 

 1960年5月26日の社説では、反米と反岸を混同し、安保反対を唱えるものを厳しく批判(注1)、同年6月21日の社説では、安保反対デモに「高校生はデモに加わるな」と、他紙にみられない角度からとらえ、未熟な高校生が加わると冷静さがなくなる、と主張している。もっとも、高校生でない人間も単なる暴徒と化した。(注2)同年6月24日の社説、「新安保条約の発効」では、「相互防衛的性格」を問題視しているが、1978年まで合同訓練すらおこなわれなかったほど、片務的条約であった。(注3)

 

注1 毎日新聞朝刊1960年5月26日

注2 毎日新聞朝刊1960年6月21日

注3 毎日新聞朝刊1960年6月24日

 

 

 

第4節    オピニオン・リーダーの主張

 

 中野好夫、坂本義和、日高六郎、篠原一、久野収、都留重人、丸山真男、清水幾太郎、隅谷三樹男氏らが、「安保改定構想を批判する」で、日本とアメリカによる軍事力強化を批判し、「国力不相応」とした。坂本義和氏は雑誌「世界」1959年8月号で(注1)、「中立日本の防衛構想―日米安保に代わるもの-」と題し、米英中ソ仏を除外した中立的諸国の軍隊からなる国連警察軍の平時からの日本常駐、自衛隊の縮小と国連警察軍指揮下入りを訴えている。大内兵衛氏は雑誌「世界」1960年3月号で(注2)、アメリカの軍拡の観点から、日米安全保障条約の存在を否定している。久野収氏は「世界」1960年3月号で、日米安全保障条約を、日独伊三国同盟より深い懸念を示している(注3)。清水幾太郎氏は、雑誌「世界」1959年11月号(注4)で中国の立場から安保改定を批判している。都留重人氏は「世界」1959年11月号(注5)で安保改定に反対し、福祉重視を訴えている。

 

注1 坂本義和 「中立日本の防衛構想-日米安保に代わるもの-」

    岩波書店 『世界』1950年12月号

注2 大内兵衛 「学者 国を憂う」 岩波書店『世界』1960年3月号

注3 久野収 「軍縮の流れに逆らうもの」 岩波書店『世界』1960年3月号

注4 清水幾太郎 「日中間にこそ平和共存を」 

岩波書店『世界』1959年11月号

注5 都留重人 「安保体制に代わるもの」 

岩波書店『世界』1959年11月号

 

 

第5節    世論の動向

 

 1959年9月の読売新聞の世論調査、「あなたはわが国の安全を守る方法として、次のどれが一番いいとおもいますか」について、国連軍の援助を期待する18%、わが国独力で守る13%、自衛隊強化9%、自衛隊強化と国連軍援助8%、いっさい無抵抗8%、自衛隊強化、アメリカ援助、国連軍援助6%、自衛隊強化、アメリカ援助6%、わからない26%となっている。1960年1月の朝日新聞の世論調査、「日本の安全を守るためにはいろいろな方法がありますが、次の4つではどの方法に賛成しますか」では、アメリカに頼る14%、国連に頼る24%、ソ連、中国とも仲良く8%、中立化35%、わからない21%である。(注1)

 

注1 読売新聞朝刊1959年9月21日

 

 

 

第5章 70年安保

 

 1970年に自動延長される日米安全保障条約に対して、ベトナム反戦運動とともに70年安保闘争が学生を中心に激しく巻き起こった。死者、負傷者の数はおびただしく、諸外国防衛当局からは半内戦状態と認識された。

 しかし、肝心の日米安全保障条約や日本の防衛、外交についてはあまり語られていない。語られているとしても極めて幼稚な理想論や、共産主義陣営のプロパガンダに感化された反米論、自衛隊廃止論がほとんどである。論壇の中心は学生運動やベトナム戦争をどうとらえるかに置かれていた。

 学生運動も革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)、革命的共産主義者同盟革命的マルクス・レーニン主義派(革マル派)、革命的労働者協会(革労協)、日本共産党を中心とした内ゲバ(共産主義者同士の内紛)が発生し、一般大衆から見放されていく。

 共産主義者同盟赤軍派のよど号ハイジャック事件は、左派メディア、文化人からは羨望の目で見られたが一般大衆に影響を与えることは無かった。

 共産主義者同盟赤軍派と日本共産党革命左派神奈川委員会(京浜安保共闘)が連合した連合赤軍は内部での凄惨な総括という名の仲間同士での殺し合いと、一般民間人を巻き込んだあさま山荘事件を起こし、一般大衆の多くは左派の過激派、左翼運動を見限った。

 東アジア反日武装戦線の連続企業爆破テロ、日本赤軍のハイジャック、大使館占拠などは左翼分子からは評価されたが、一般大衆からは左派思想が無視される遠因となった。

 

 

 

 

   80年代の安全保障と論議

 

 

第1章 79年危機と冷戦激化における日本の安全保障政策

 

 第1節 日本における新たなる安全保障論議

 

 1970年代に入るまでの日本の安全保障論議は、国内的なものに終始していた。日本を揺るがした1960年の60年安保、1960年代後半の70年安保論争では、おもに日米安全保障条約を存続させるか、破棄するかが議論の中心となり、その内容、そして日本の安全保障政策、ひいては日本がどうあるべきかという具体的な議論、現実的な議論、戦略はほとんど議論されなかった。そして、個々の外交政策、防衛政策についても国内的視点に終始し、個別の論議のみに終わっていた。しかし、1968年には国民総生産が西ドイツを抜いて世界第2位となり、貿易立国として世界と密接に関わらざるを得なくなっていた1970年代の日本は、一国の安全保障論議でとどまれるわけもなく、さまざまな国際情勢に関連した安全保障論議が必要になってきた。それが必要になった理由は特に1970年代に発生した国際的な案件が大きく影響し、1980年代の世界規模での冷戦激化によって、西側陣営の一員としてもはや避けられないものとなっていった。

 

   第2節 冷戦激化に至るまで

 

 1972年2月21日の米ニクソン大統領の訪中をはじめとする米中の接近は、それまでの戦略環境を一変させた。これまでのアメリカ・ソ連・中国の三極の、三つどもえの対立から、アメリカ・中国とソ連の対立へ大きく変化した。また、このアメリカと中国の接近は、アメリカにとって同盟国である日本の頭越しで行われ、同盟関係は国益によっては優先されないという国際情勢の厳しさを教訓として、日本に残した。

 一方で、1972年5月22日のSALT(戦略兵器削減交渉)調印はアメリカとソ連の対立を緊張緩和(デタント)の方向へ向けさせると考えられ、1973年3月29日の南ベトナムからのアメリカ軍撤退完了、そして1975年のベトナム戦争終結というながれもそれを促進させるというふうにとらえられた。それは1975年のCSCE(全欧安保協力会議)発足に象徴されるように、米ソ冷戦緩和を予感させた。1978年の『昭和53年版日本の防衛(防衛白書)』においても、「2超大国の対立という戦後の基本的構造は変わっていない」ものの、「米ソ間の平和共存、中ソの分裂」という大きな変化が見られると指摘している。北東アジアにおいては、「米中ソ3局対立で紛争おこりにくい(均衡成立)」という記述が見られ、同様に翌年、1979年の『昭和54年度版日本の防衛(防衛白書)』においても、「(防衛計画の)大綱が前提とする情勢の基調が大きく変化したとはいえない」との表現で示した通り、それほどの危機感は感じられない。

 

   第3節 東側の攻勢と79年危機

 

 東アジアにおいて1975年8月にラオス人民民主主義共和国、よく1976年7月にはベトナム社会主義共和国が相次いで誕生、インドシナにおいて親ソ連の社会主義政権が大きな存在を示した。特にベトナムへは、極東ソ連沿海州から日本海、対馬海峡、東シナ海を通って海軍、空軍がダナン、カムラン湾に派遣されるなど、ソ連のプレゼンスが強まった。

 そして、カンボジアでは1976年4月にキュー・サムファンを元首、ポル・ポトを首相とする毛沢東主義(親中国派)の「民主カンプチア共和国」が誕生、ベトナム、カンボジアと、アメリカと関わりの深い東南アジア諸国連合(ASEAN)との三極の緊張状態が始まったのであった。そして、極東ソ連軍・ウラジオストクに、VTOL(垂直離着陸機)30機搭載のキエフ級空母「ミンスク」、カラ級巡洋艦「ペトロパウロフスク」、イワン・ロゴフ級揚陸強襲艦「イワン・ロゴフ」等が回航され、戦力が増強された。また1978年には、1960年以来18年ぶりに国後島、択捉島にソ連地上軍(旅団規模、5000人)が配備されたのが確認されるととともに、ミコヤンMIG-23戦闘機の飛行隊も配備されるなど、北海道を中心とした日本列島における露骨な脅威となった(注1)。

 アフリカでは1974年9月にエチオピア革命によってハイセラシエ皇帝の政権が終焉

しメンギスツ政権が誕生、次々と親ソ連の政策を実施し、1978年にソ連・エチオピア間で友好・協力条約が締結された。そして、この親ソ連エチオピアと親米的であるソマリア、西ソマリア解放戦線がオガデン地方をめぐって紛争となり、東部アフリカでの最大の危機要因となったほか、アラビア海を望む「アフリカの角」の主導権を米ソのどちらが握るかが焦点となった。アフリカ南部のアンゴラではMPLA(アンゴラ人民解放運動)とFNLA(アンゴラ解放民族戦線)、UNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)による内線が勃発した。ソ連は1976年10月にアンゴラ(MPLAとのあいだで)間で友好・協力条約を締結、軍事援助を開始、親ソ連のキュ-バは軍を派遣した。それに対し、中国はFNLA,UNITAに軍事援助し、さらに国境付近に迫るキュ-バ軍に危機感を抱いた南アフリカ共和国もFNLA,UNITAに軍事援助するとともに、自らも直接軍事介入を行った。アメリカも一時期までFNLA,UNITAに援助していた。

 また、モザンビ-クでは親ソ連派のFRELIMO(モザンビ-ク解放戦線)が政権につき、モザンビ-ク人民共和国が誕生、1977年3月にはソ連と友好・協力条約を締結し関係を深めていった。

 中東・西アジアでも緊張が激化していく。南イエメン(イエメン民主人民共和国)の親ソ連化に加え、アフガニスタンでは1978年4月のサウル革命によって人民民主主義党書記長のタラキの左翼・親ソ連政権が誕生する。東側・社会主義勢力の攻勢が続くなか、西側陣営にとっての中東における砦であり、「ペルシャ湾の憲兵」とよばれたイラン・パーレビ国王の政権は、当時最新鋭のグラマンF-14トムキャット戦闘機を購入し、同じく当時最強の駆逐艦・キッド級(DDG、満載排水量・9574トン、船価3億3000万ドル)を4隻発注するなど、国家防衛体制をさらに親米、西側陣営寄りに傾けていた。     

しかし、「人権外交」を標榜する米カーター政権によって、人権侵害を指摘され、アメリカによる政権維持の後ろ盾はあやうくなっていた。そして貧富の格差拡大と秘密警察サバクによる過酷な反政府活動取り締まりによって国民の反発は日増しに高まり、ついには1978年1月にコム暴動が発生、イスラムの反政府運動が活発化、政権は危機に瀕していく。

 ヨ-ロッパにおいてソ連は、中距離核戦力(INF)を旧式のSS-4,SS-5から移動式3弾頭各個誘導多核弾頭中距離弾道(MRBM/IRBM)ミサイルのSS-20に更新、そしてT-72戦車、Mi-24攻撃ヘリコプターも配備され、ヨ-ロッパ平原における戦闘に備えた戦力増強が進められた。さらにMIRV(各個誘導多核弾頭)化されたSS-17、SS-18大陸間弾道ミサイル(ICBM),ツポレフTu-22「バック・ファイアー」爆撃機の配備などの戦略兵器の増強が続いた。海上戦力では、キエフ級空母2隻の配備と建造中の1隻が確認されたほか、カラ級巡洋艦、クリヴァック級駆逐艦、モスクワ級ヘリ空母の配備が急速なスピ-ドで進んだ。

  このようにソ連の攻勢が続いていた1970年代後半であったが、さらなる混迷が1970年代最後の年、1979年に大挙して訪れることになる。1979年1月、ベトナム軍はカンボジアに侵攻し、親中国派「民主カンプチア」政権を討伐、ベトナムの傀儡であるヘン・サムリン政権が発足する。そして、翌2月17日にはこのベトナムによるカンボジア侵攻に対して、中国が「懲罰」と称してベトナムに侵攻、中越戦争が勃発する。中国軍は「懲罰」が終了すると早期にベトナムから撤退したものの、中国はベトナムによって討伐された「民主カンプチア」政権を率いたポル・ポト派を支援、ゲリラ活動を行わせる。これによりヘン・サムリン政権、ポル・ポト派の対決を中心とし、さらにソン・サン派、シアヌーク派を交えた内戦が勃発する。

  そして中東では1979年2月1日、亡命中のイスラム指導者・ホメイニ師が帰国、イスラム革命が発生し、これによって政権基盤が非常に危うくなっていた親米・パ-レビ国王の政権がついに崩壊、イラン・イスラム共和国が誕生した。この、ホメイニ師率いる革命政権は、同年3月にはイギリスと関わりの深い、西側陣営に属していた中央条約機構(CENTO)を脱退し、これによって危機にさらされていた中東におけるアメリカおよび西側陣営の拠点は明確に失われた。さらにこの年の11月4日、テヘランのアメリカ大使館は、パーレビ国王の病気治療をアメリカが受け入れることに反対するホメイニ支持のイスラム神学生によって占拠される。この占拠事件を最高指導者のホメイニ師が擁護・支持したことは、事件解決に多大な時間を要することとともに、新しく誕生した「イラン・イスラム共和国」との関係が以前の親米・親西側の王制イランとは全く相容れない、敵対的な関係となることを決定づけた。さらに、この事件の16日後である11月20日には、イランにかわる中東の西側陣営の拠点となりつつあったサウジ・アラビアでも熱狂的なイスラム教信奉者によるイスラム暴動が発生した。メッカのモスクがイスラム原理主義者によって占拠され、巡礼者が人質に取られるという事件が発生し、イランと同様、サウジ・アラビアにおいても内政の安定に不安がもたれた。そして、同年12月25日にはアフガニスタンにソ連が侵攻、中東および南アジア、インド洋からアラビア海までをうかがうことのできるこの地を完全に手中に収めた。

 西側陣営の勢力圏の衰退はアメリカの裏庭である中米・カリブ海でも進んでいた。1979年3月、グレナダの親米政権が革命により、親ソ連・親キュ-バの左翼モーリス・ビショップ政権に代わり、キュ-バから正規軍および軍事顧問団、軍事及び民生の援助が与えられた。同年7月にはニカラグアにおいて、マルクス・レーニン主義のゲリラ組織サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が親米ソモサ政権から政権を奪取した。このサンディニスタ革命政権もソ連、キューバの支援を受け反米、親ソ連色を明確にした。そしてエル・サルバドルにおいても親米ロメロ政権が崩壊後、右派および軍部と左翼ゲリラ、ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)の内戦が勃発した。こうして西側、特にアメリカは勢力圏が事実上縮小、あらたなる対応を迫られた。

 以上のように1980年代を迎える直前に各陣営の勢力図は大きく書き換えられることとなった。極東・東アジアではソ連軍の大幅な行動能力の拡大と、勢力圏の拡大があった。

このことは米中接近による勢力均衡だけでなく、さらに踏み出したものが必要であることを認識させた。中東・北アフリカではアフガニスタン、南イエメン、エチオピアが東側陣営となり、イラン、ソマリアは不安定要因となった。これによって石油の輸送ル-トは非常に危ういものとなり、中東における新たなる拠点の必要性とアフリカでの勢力圏拡大の必要性に迫られた。そして、今までは完全にアメリカの勢力圏内だった中米にも東側陣営の手が伸びた。これは、アメリカの安全は核抑止力と前方展開戦略だけではどうにもならないことを意味し、新たなる戦略の必要性を生んだ。

 

注1 防衛庁『昭和53年版 日本の防衛』 第1部 国際軍事情勢

 

 

   

 

第4節 西側の巻き返し、冷戦激化へ

 

 1979年12月31日のカーター大統領の声明、「ソ連の一連の行動は私の考えを一気に変えた」が象徴するように、こうした東側陣営の攻勢に対して、西側は遅ればせながら反撃にでていく。1978年の北大西洋条約機構(NATO)首脳会議では、長期防衛計画(LTDP)として、全加盟国が防衛費を毎年、対前年比3%増加することで合意した。そして、ソ連がヨ-ロッパに配備した中距離核戦力SS-20に対抗して、アメリカは同じく中距離核戦力であるMM-31パーシングⅡ108基とBGM-109(MGM-109)地上発射巡航ミサイル(GLCM)464基をヨ-ロッパに配備する事を表明、西ドイツを中心とする配備国もそれに同意し、東側陣営に対する結束と決意を見せつけた。通常戦力では大挙して押し寄せてくると想定されるワルシャワ条約機構軍の機甲部隊にたいして、アメリカは新世代兵器である陸軍「ビッグ5」(M1エイブラムス戦車、M2ブラッドレー歩兵戦闘車、マクドネル・ダグラスAH-64アパッチ攻撃ヘリコプター、MIM-104PATRIOT防空システム、UH-60ブラック・ホーク汎用ヘリコプター)の配備を表明し、そして空軍は、F-15イーグル戦闘機、F-16ファイティング・ファルコン戦闘機、フェアチャイルドA-10サンダ-ボルトⅡ攻撃機をヨ-ロッパに配備したほか、アメリカ以外のNATO各国もイギリス、ドイツなど主要国を中心に大幅な戦力強化を行うことで、ワルシャワ条約機構軍の膨大な地上戦力に対して「エア・ランド・バトル・ドクトリン」を完成遂行させ対抗している。

 1979年に立て続けに発生した危機に対してカーター米大統領は、まずニカラグアに対しての政策を実行に移した。同年12月、米上下両院にたいし、ニカラグア・サンディニスタ政権に干渉するための秘密工作活動を開始した旨、を通告した。

当初、サンディニスタ政権内部の反主流派、反対勢力を支援する事によって、内部攪乱、内部崩壊および軍事行動の準備を目的に進められた活動であったが、その効果は芳しくなくサンディニスタ政権による反政府勢力に対しての弾圧が激しくなり、数万人単位の大量の難民が発生し、地下活動・ゲリラ活動が活発化した。よってそのことからアメリカはアルゼンチンとともに反革命・右派ゲリラ組織「コントラ」を支援する。またエル・サルバドルの右派軍部政権に2500万ドルを支援している。このような反革命・右派組織に対する支援・工作活動を中米各国に広げていった。

さらに1983年10月には親ソ連左翼政権のグレナダに直接軍事侵攻した。親米ロメロ政権を打倒した親ソ連左翼政権を粉砕すべく、空母インディペンデンスからLTV Aー7コルセアⅡ攻撃機が主要拠点を攻撃した。その後AC-130スペクター・ガンシップ攻撃機の近接航空支援のもと、合衆国陸軍第75レンジャー連隊がコリンズ飛行場を強襲、飛行場を制圧した。ノース・キャロライナ州フォート・ブラッグから第82空挺師団の5000人も到着、占領を開始した。偵察衛星では派遣されていたキュ-バ人は労働者と思われていたが正規軍であり、激闘のすえ大きな被害を被りながら、首都を制圧、政権を打倒している。

 中東においてイランという最重要国家を失ったアメリカをはじめとする西側陣営は、ペルシャ湾岸の産油国にその代替をもとめていく。その中心となったのがサウジ・アラビアである。サウジ・アラビア国内にはアメリカの支援のもと、プリンス・スルタン基地など航空基地を中心に軍事施設の整備が進められ、さらにそれら軍事施設はアメリカ軍が使用するなど、親米色が強まっていく。アメリカもサウジ・アラビアに対し、アメリカ国内における議論で、アメリカとは特殊な関係にあるイスラエルの軍事的優位が揺らぐ、中東においてサウジ・アラビアの軍事力が突出し、戦略バランスが崩壊する、などの懸念のため慎重論の強かった、マクドネル・ダグラスF-15イ-グル戦闘機をピース・イーグル・プロジェクトで輸出した。

  また、アフガニスタンの隣国・パキスタンにたいして、パキスタンとは競合関係にあるインドが外交的、軍事的にソ連に接近して以来、特に外交的関係を深めていたアメリカは、ソ連のアフガニスタン侵攻後、さらに深く関与していくことになる。パキスタンのインドに対抗しての核開発に対する懸念と、インド、パキスタンの緊張状態を加速化させることを懸念して軍事的援助には慎重だったアメリカは政策を変更し、最新鋭のゼネラル・ダイナミクスF-16ファイティング・ファルコン戦闘機を供与し、パキスタン国内の難民キャンプに本拠を置くアフガニスタン・ゲリラにたいする越境攻撃を行うソ連軍への防壁を作り上げた。

そのほか、アメリカはアフガン・ゲリラ十数万人にたいし、サウジ・アラビアを中心とするペルシャ湾岸産油国の供出した資金の供与とともに、中央情報庁(CIA)による軍事訓練と、携帯地対空ミサイルのFIM-92スティンガー、FIM-43レッドアイ等の最新鋭ゲリラ戦兵器の提供を実施した。南アジアにおけるアメリカとソ連の関係は、アメリカはパキスタン、アフガン・ゲリラと、ソ連はインドと、といった対立関係の構図が作り上げられ、冷戦激化に対しての新たなる相関図が確立された。

 このようなアメリカの中東への関与政策は、1980年1月にソ連のアフガニスタン侵攻に対して「ペルシャ湾地域の支配を狙う外部勢力のいかなる試みも、米国の死活的利益にたいする攻撃とみなされる。こうした攻撃には、軍事力を含むあらゆる手段で反撃する」と発表した、いわゆるカーター・ドクトリンに基づくもので、一連の危機に対するアメリカの対応の基本となっている。

 レ-ガン政権に入ったアメリカは上記のような各地域の陣営テコ入れに加え、自らの軍事力増強により東側陣営に対抗する手段を打ち立てていく。海上戦力の強化では、現有の456隻から、1,3倍近い戦力増強となる水上戦闘艦600隻体制、巡航ミサイル・トマホ-クの水上戦闘艦、攻撃型潜水艦への配備、予備役の戦艦の巡航ミサイル母艦としての現役復帰、戦略ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN)オハイオ級の配備(1981年8月)などがあげられる。また、1981年10月に「戦略兵器強化計画」を発表している。この「戦略兵器強化計画」は、ソ連のSS-18を中心とするICBM強化、Tu-22「バック・ファイアー」爆撃機の配備に対抗するもので、SALTⅠの締結、SALTⅡの交渉によるデタント傾向期に更新を遅らせたため、ソ連に数量的に水をあけられてしまった戦略兵器配備の挽回をはかるものである。

この「戦略兵器強化計画」においての航空戦略戦力の向上では、以下のようなものがあげられる。1970年代に入って極秘裏に研究・開発の進められていたステルス戦略爆撃機ATB(先進技術爆撃機)ノ-スロップB-2スピリット爆撃機の開発推進およびできる限り早期の実戦配備と、ATB実用化までのつなぎとして、カーター政権において、研究・開発の途上で計画の中止されていたLRCA(長距離戦闘航空機)ロックウェルB-1Aランサー爆撃機を、敵防空識別圏外からの攻撃を可能にする空中発射巡航ミサイルAGM-86Bの発射母機としての運用する仕様変更の上、B-1B爆撃機として100機生産の復活を発表した。

またこの「戦略兵器強化計画」における地上配備の戦略兵器の強化としては、LGM/HGM-25AタイタンICBM、HGM-25CタイタンⅡICBM、LGM-30ミニットマンⅡICBMの後継として、MXミサイル・MGM-118ピース・キーパーICBMの開発促進および配備を発表、ミニットマンⅢICBMとの2本建ての体制を固めている。

 そして1983年3月23日には、レーガン大統領が「戦略防衛」を提唱し、翌年の1984年2月には『国防省・国防長官の合衆国大統領と議会への国防年次報告』で戦略防衛構想(SDI)と称される画期的な計画が発表された。この戦略防衛構想は、今までは不可能であるとされた、東側陣営から発射されたICBMを中心とする各種弾道ミサイルを迎撃するものである。

この戦略防衛構想は1960年代に研究に着手され、1970年代初頭から実験が開始された高エネルギー・レーザー技術を中心に、弾道ミサイル発射直後(ブースト期)迎撃機会に、ボ-イング707およびボーイング747貨物機に酸素・ヨウ素化学レーザー(COIL)発射機を搭載したAL-1で迎撃する「エア・ボーン・レーザー計画(ABL)」、大気圏外宇宙空間に超音速で飛翔中の弾道ミサイルにX線レーザー、中性子ビ-ム、エレクトロ・マグネティック・レイルガン、衛星軌道上に常時数千の小型迎撃衛星を配備するシステムの弾道ミサイル迎撃衛星「ブリリアント・ペブルス」等で迎撃する中間期間迎撃機会、地上に配備された各種レーザー、ビーム兵器、対空ミサイルで迎撃する終末期間迎撃機会、F-15戦闘機から発射される対衛星ミサイルで敵の衛星を攻撃、通信、偵察機能を麻痺させる「ASAT」計画、などの要素で構成される。

弾道ミサイルからの防衛を中心とした、全地球、および宇宙配備の戦略防衛構想は、科学技術的に実現不可能である、ソ連との軍拡競争を加速させる、宇宙空間の軍事利用が過熱化する、などと各方面から非難、否定された。しかし、相互確証破壊理論に基づく核抑止論を崩しかねないこの構想は、この構想を構成する要素の研究に着手していなかったソ連に大きな衝撃を与え、およびソ連に同様の構想の着手を急がすとともに、戦略防衛構想と戦略兵器計画はソ連の核戦略体制の出遅れとなり、ソ連の譲歩というかたちで核軍縮交渉の席につかせる大きな要因となった。そして、SDIは実現することなく終わったが、このSDIは、G-PALS計画、GMD(全地球規模ミサイル防衛)-NMD(国家ミサイル防衛)-TMD(戦域ミサイル防衛)計画、BMD(弾道ミサイル防衛)計画、TMD、NMDと紆余曲折を経てMD(ミサイル防衛)、BMD(弾道ミサイル防衛)となるようである。

 カーター政権末期とレーガン政権で採用された世界各地域における自陣営の政治的、軍事的強化と、アメリカ軍の世界規模での戦略面、戦術面の双方における防衛力拡張は、ソ連のそれに対抗することとともに、ソ連経済を崩壊させることによるソ連の内部崩壊、対米融和に導き出そうとするのが目的にあった。国家安全保障会議のトーマス・リード空軍大将は1982年にソ連の軍事力の拡大と経済力の限界について報告、それには、軍事費がソ連のGNP比20%に達すると経済が崩壊するとし、軍事費がGNP比20%に達するには毎年の軍事費の対前年比が4%以上であることとしている。アメリカは、アメリカが積極的な軍拡を行うとそれに対抗してソ連も同様に軍拡を行うと見越し、戦略、戦術の両面で非常に大規模な軍拡を行った。

  ソ連の拡張主義に対抗しての、西側陣営の盟主・アメリカが主導する世界各地での政治的、軍事的なこうした巻き返しと、アメリカによる自軍の戦略、戦術の双方の軍事力の大幅な強化は、1970年代のデタント傾向のなかで確実に進行していたソ連の勢力圏の拡大を確実に封じ込めていったが、そのような巻き返し行動が日本、東アジアではどのような影響を与えたかを次節で検証する。

 

 第5節 極東における西側陣営の攻勢

 

 東アジアにおいてもアメリカ、西側陣営の攻勢が始まったが、それは世界の他地域における攻勢とは違い、多分にアメリカ主導の色が濃いものだった。アメリカ自身の東アジアでの攻勢は、海上戦力では太平洋軍(司令部・ハワイ州パール・ハーバー)所属の第3艦隊(カリフォルニア州サン・ディエゴ)と第7艦隊(神奈川県横須賀市)に配備される艦船を更新・強化した。それは巡航ミサイル・トマホークの発射母艦として現役復帰した戦艦ニュージャージーと、1970年代初頭から艦船更新計画に入っていたスプル-アンス級駆逐艦(番艦DD-963「スプルーアンス」、満載排水量8040トン、建造:ゼネラル・ダイナミクス・バス・アイアン・ワークス、リットン・インガルス造船所)、オリヴァー・ハザード・ペリー級フリゲート艦(番艦FFG-7「オリヴァー・ハザード・ペリー」、満載排水量4105トン)、ロサンゼルス級攻撃型原子力潜水艦(番艦SSN-668「ロサンゼルス」、水中排水量6927トン、建造:ゼネラル・ダイナミクス・エレクトリック・ボート造船所、ニューポート・ニューズ造船所)の配備を進めることが主であったが、さらに戦力を強化するため新型艦船の配備も進められた。ソ連海軍の圧倒的な数量による集中的なミサイル飽和攻撃に対抗するため、1969年末より新たなる設計思想で研究・開発されていたフェーズド・アレイ・レーダーAN/SPY-1Aと、新型コンピュ-タ-とで複数目標を同時に捜索・追尾・迎撃できる画期的な防空システム、戦闘システムMk7「イージス・システム」を完成させたアメリカ海軍は、それを早期に実戦化するために、スプル-アンス級駆逐艦の船体を流用しタイコンデロガ級巡洋艦(番艦CG-47「タイコンデロガ」、満載排水量9407トン、建造:ゼネラル・ダイナミクス・バス・アイアン・ワークス、リットン・インガルス造船所)を急遽完成させ、異例の早さで1983年に実戦配備している。そしてチャールズ・F・アダムズ級艦隊防空ミサイル駆逐艦(1番艦DDG-2、「チャールズ・F・アダムズ」、満載排水量4562t)に代わり、1980年代半ばの就役をめどに「イ-ジス・システム」を搭載し、さらにステルス技術を活用したアーレイ・バーク級駆逐艦(番艦DDGー51「アーレイ・バーク」、満載排水量8422トン)の配備をさらなる戦力強化の一環として発表している。そして、それぞれの艦船へはトマホーク巡航ミサイルが搭載され、陸上および海上における遠隔地への敵にたいする攻撃力も強化している。さらに空母艦載機の更新も行われており、マクドネル・ダグラスF-4ファントムⅡ戦闘機、LTV A-7コルセアⅡ攻撃機から新世代の高性能なF-14Aトムキャット戦闘機、マクドネル・ダグラスF/A-18ホ-ネット戦闘攻撃機への変更などによる艦隊防空・邀撃能力、および地上攻撃能力の大幅強化がそれにあげられる。また、ウラジオストクから津軽海峡、宗谷海峡を通って太平洋に抜ける、また日本海、対馬海峡を通り、東シナ海に抜け、東南アジア方面(特にベトナム、カムラン湾)へ移動するソ連潜水艦の監視、封じ込めのための対潜水艦戦能力の向上のために、高い対潜哨戒能力を持つロッキードP-3Cオライオン対潜哨戒機、シコルスキーSH-60Bシー・ホ-ク/SH-60Fオーシャン・ホーク対潜ヘリコプターの日本配備を進めている。

 また、航空戦力では同じく太平洋軍所属の第5空軍(東京都・府中基地)、第5空軍第314航空師団(韓国・烏山基地)配備の作戦航空機の強化しており、特にF-15戦闘機とE-3空中警戒管制機の沖縄・嘉手納基地配備は、極東ソ連から東南アジアまで広くカバーし、同地域を移動する、特にウラジオストクからベトナムのダナン、カムラン湾のあいだを移動するソ連軍に対して大きな影響力を持った。また、F-16戦闘機の韓国配備は1970年代から急速に戦力を増強した北朝鮮にたいしての抑止力の一端を担った。これと同様にまた、アメリカは韓国にたいし15億ドルの軍事援助を供与したほか、F-16戦闘機の輸出、ライセンス生産を援助することによって韓国の軍事力自体も強化させることで、北朝鮮の脅威に対抗、朝鮮半島の安定化に貢献している。

 そして、日本である。韓国における、アメリカ軍の戦力増強と、韓国国内の政治状況の強化、安定化と韓国の戦力の増強は、あくまでも朝鮮半島の軍事的均衡、安定という一定のせまい地域に限られたアメリカと西側陣営の巻き返しだったのに対し、日本における巻き返しの行動は、東アジア全体における西側陣営の強化という、世界戦略の一環で行われた。前述したF-15戦闘機の沖縄配備はまさにそれに当てはまり、アメリカ先行での巻き返しが始まった。

 

 第6節 冷戦激化期における日本の対応

 

 極東ソ連軍が増強され、東アジアにおけるプレゼンスを強化していっている状況下において、日本における巻き返しは西側陣営にとって非常に重要であったが、日本の戦力は、その世界第二位のGNPを誇るその経済力、国土の広さを考えれば、ヨ-ロッパ、NATO諸国のそれに比べて、質・量ともに相対的に低いと言わざるを得なかった。1980年前半の日本の戦力、自衛隊員の総数は27万人であり、防衛費のGNPにおける割合は1%未満であった。それと比較して、日本と同じ西側陣営の西ドイツは日本の約半分の人口、GNPは世界第3位であったが、兵力は約40万人、GNPにおける国防費の比率は3%強であった。そして同じく西側陣営のイギリスは日本の約半分の人口、約3分の2の面積、GNPは世界第6位であったが、兵力は日本とほぼ同等の約25万人、国防費のGNPにおける比率は5%前後であった。これらのことから考えても日本の防衛努力は低いものであり、その向上が求められた。

 自衛隊の戦力の増強およびそれにともなう防衛費の増加というハ-ド面以外に、非核三原則による硬直した核政策、武器輸出三原則による事実上の武器輸出禁止、防衛費をGNP比1%以内に抑えるという縛り、など安全保障政策に対する政治的制約が多く存在し、効率的な防衛政策の遂行が困難な状況であった。また、1977年に始まった有事法制の研究が、野党の反対で「研究」のみにとどまり、法制化されなかったという事実が存在した。この事実は自衛隊の行動を大きく妨げる要因となっており、自衛隊の戦力を無力化するものであった。さらに日米安全保障条約の第六条「日本国の安全に寄与し、並びに極東における平和及び安全の維持に寄与する」いわゆる極東有事にたいする法的整備等の対応は全く整備されておらず、極東を中心とする東アジアにおける日本およびアメリカの効率的な軍事を中心とする行動が制約されていた。このような、防衛に対しての法律の不備を中心とするソフト面の不備も日本における防衛状況の低さを露呈していた。

 さらに国会においては、自衛隊が憲法違反か否か、が問われ続けるという、いわゆる神学論争が続いており、それに付随するかのように防衛に関連する法律等の審議は平行線をたどっており、防衛の強化は困難な状況にあった。これら事実は国民が防衛努力に不熱心であるというひとつの結論をあらわしていた。この国民のなかに存在する防衛に対する不熱心な姿勢は、不熱心というものにとどまらず、防衛や軍事といったものに対する忌避や拒否反応まで存在し、防衛努力向上の障害となることが予想された。

 こうした状況のなかでの巻き返しを迫られた日本であるが、やはりその防衛強化に対する姿勢は及び腰であった。第一次石油危機による経済の悪化によって防衛費の伸び率が抑えられてきた日本は、さらに1979年の第二次石油危機による経済の悪化によって緊縮財政を余儀なくされ、他の一般歳出とともに防衛費の伸び率も抑えられることが予想された。 

緊迫、混迷の度合いを増す国際情勢のなかにあって、上記のような日本の防衛に対する消極的な姿勢に対して、アメリカは圧力とも言える防衛に対しての要請を求めてきた。 1980年1月13日に来日したブラウン国防長官は、アフガニスタンの隣国で、アフガニスタンにおける対ソ連活動の拠点となり、さらにインド洋・中東の安定の基礎となるパキスタンにたいする支援を要請するとともに、日本が防衛力増強を実行することを要請した(注1)。しかし、ブラウン国防長官の要請の後、大平首相は同年2月27日の賢人会議で防衛費を「急には増やさぬ」と発言し(注2)、米国からの要請の拒絶とも受け取れる、防衛力強化にたいしての消極的な姿勢を示している。

同年3月にも、訪米した大来佐武郎外務大臣にブラウン国防長官は、1980年から1984年までの装備を中心とする防衛力整備計画である「53中期業務見積もり(53中業)」の1年繰り上げ実施を要請した。この場合、防衛費が対GNP比1%を越える可能性があった。しかし大来外相の訪米を前にした3月5日、参議院外務委員会で大来外相は、防衛費の対GNP比1%に「1%到達には時間(がかかる)」と発言(注3)、また同様に3月9日に大蔵大臣も1%達成困難と防衛力強化に消極姿勢を示しており、アメリカ側との認識の乖離を露呈している。

しかし、政府が防衛費増強に及び腰なのに対し、4月30日には、以前までは日本の防衛力増強に批判的だった中国が、伍副総参謀長による発言のかたちで日本の防衛費の2倍増を希望することを示唆し(注4)、また経済界の実力者で、日本の言論界にも影響力のある関西経済連合会の日向方斎会長は防衛費の対GNP比1,83%までの増加を2年以内に実行する事を求め、そして大平首相の諮問政策研究グル-プが防衛費の対前年比20%増を求めるなど、アメリカ、中国という同盟国及び戦略的パートナーシップの外国と、民間主導の勢力の積極的な防衛費増加推進の提案が示され、日本政府との国際情勢およびそれへの対応にたいする認識の違い、すなわち日本政府の防衛力増強に対する消極的姿勢をうかびあがらせた。

  その後、7月29日に防衛費の対前年度比9,7%増加で合意した政府であったが、8月2日にはマンスフィールド駐日アメリカ大使がさらなる防衛費増加を要請し、8月9日には米国務長官が要請し、そうした要請はその後数回続くことになった。この時期、同じ極東の韓国の防衛費が対前年度比22%と大幅な伸びとなった。韓国の防衛費が日本の防衛費より規模が小さいとはいえこの伸び率は日本の努力不足を連想させた。

 10月26日にはニール下院議員は、日本にたいし対GNP2%を安全保障税としてアメリカに納めるよう提案した「GNP2%安保税」決議が議会に提出された。ザブロッキ下院外交委員長は「日本は強大な経済力に見合う防衛負担をしていない」として対GNP比1%の防衛支出から2倍に増額することを要請した。さらに、おなじ10月下旬ヘルムズ上院議員は、日本の防衛支出増大と日米安全保障条約の改定交渉の開始を大統領に要請する決議案を上院本会議に提出するなど、米政府のみならず、議会でも日本の防衛力増強の要請と、日本政府の防衛への努力不足を指摘する声が多く聞かれ、それはすなわち米国民の声と考えることができるだろう。

 そして12月9日の日米防衛首脳会談においてレーガン次期米大統領は日本の防衛費の対前年度比9,7%増加を下限であると発言し(注5)、翌年から発足する民主党から共和党への政権交代でも日本に対する防衛力強化の要請は続くことが予想できた。一方で鈴木善幸首相は2日後の12月11日に防衛費増9,7%増を上限であると発言しており(注36)、日米の防衛力増強にたいする認識のギャップは埋まらなかった。そして結局は防衛費の対前年度比9,7%増加という最低限のラインに近い数字で最終決定したが、他の予算が軒並み伸び率を抑えられている財政状況を考えると、防衛費の伸び率は相対的に高くなっており、日本政府の努力の跡が見られるが、冷戦激化への認識が甘く、西側陣営の極東の拠点であるという意識が薄いと感じられる。

特に大蔵省、大蔵官僚、大蔵大臣、厚生省、厚生大臣、厚生官僚は防衛費の伸び率のみの突出に反対する発言をしており、冷戦激化という現状になんらの危機感をもたず、政府内の認識の統一はなされることはなく、ましてや野党においては民社党のみが防衛費の対前年度比9,7%増加を理解するというものにとどまっただけだった。

 1981年に発足した共和党レーガン大統領政権では、防衛費の増額のみならず、日本および自衛隊が何をすべきか、という具体的な行動の実行を要請してきた。1981年3月にはマンスフィ-ルド駐日アメリカ大使は、日本の対潜水艦戦能力と防空能力の向上、近代化を期待する発言を行い、同月ワインバーガー国防長官は、伊東正義外務大臣に対し、グアム以西、フィリピン以北の海域を自衛隊が防衛することを要請した。

 1981年5月初頭には鈴木首相が訪米した。5月8日の日米首脳会談での共同声明では、ソ連のアフガニスタンへの軍事介入にたいする「憂慮の念」を示すとともに、「総理大臣と大統領は、日米両国間の同盟関係は、民主主義及び自由という両国が共有する価値の上に築かれている」と語られ、「総理大臣と大統領は日米相互協力及び安全保障条約は、日本の防衛並びに極東における平和及び安定の基礎であるとの信念を再確認した。両者は、日本の防衛並びに極東の平和及び安定を確保するにあたり、日米両国間において適切な役割の分担が望ましいことを認めた。総理大臣は、日本は、自主的にかつその憲法及び基本的な防衛政策に従って、日本の領域及び周辺海・空域における防衛力の改善し、並びに在日米軍の財政的負担をさらに軽減するため、なお一層の努力を行うよう努める旨述べた。大統領は、総理大臣の発言に理解を示した。」(注7)と記されていた。

さらに同日行われた演説では、「米第7艦隊がインド洋、ペルシャ湾に移動し、日本周辺海域の防衛がおろそかになっている。日本としては、周辺海域数百カイリの範囲とシーレーン1000カイリを憲法に照らし合わせ、我が国の自衛の範囲内で守っていく政策を進めていく」と発言した。

  日米首脳会談での共同声明では「同盟関係」という言葉が使われた。日米両国の軍事的関わりをできるだけ強調しないようにしてきた今までの日本の姿勢とは違い、この「同盟関係」という言葉を使用したことは、軍事的な言葉および軍事を連想するものを忌避してきた過去の政策からの画期的な転換であり、日本がアメリカとの軍事的協調を公にしたものとしてアメリカ側から歓迎された。そして演説で公表された、「1000カイリ・シーレーン防衛」は、東京、横浜の両港から南東方面へグアム島までの1000カイリと、大阪、神戸の両港から、南西方面に琉球諸島、台湾に沿ってフィリピンまでの1000カイリの航路帯を日本の自衛隊が防衛任務を分担して受け持つもので、その後の日本の防衛戦略の基本となるものであり、非常に重要なものであった。

  しかし、この2つの重要な政策は、否定されてしまう。まず、5月9日の新聞朝刊で「同盟関係」が大きく取り扱われ、特に、朝日新聞では「軍事色つよまる」(注8)との見出しで扱われるなど、各種報道機関で「同盟関係」が軍事を想定するものであるとの印象での報道がなされた。これまで軍事を忌避するようにしてきた日本政府、鈴木首相周辺は動揺し、まず、5月9に宮沢喜一内閣官房長官が朝日新聞など国内メディアに気を使い、日米同盟関係は「強い軍事的意味持たぬ」と発言(注9)、5日後の5月14日の参議院本会議では宮沢官房長官の進言で鈴木首相がこの日米共同声明は、軍事的意味は全く持たないと答えた(注40)。

このことはアメリカ側の反発を招いた。日米安全保障条約が軍事的意味合いを持っている以上、日米共同声明にある「同盟関係」が軍事的意味合いを持たないわけがない。さらに、激化する東西冷戦のなかで、強い結束を誇示する必要があるときに、マスコミの批判に安易に妥協した形で発言をおこなった宮沢官房長官、鈴木首相には責任があると言える。   

鈴木首相は、日米共同声明の作成にたいし不満を述べ、事態のさらなる困窮を招いた。こうした事態によって、日米共同声明を作成した伊東外相と高島外務事務次官が抗議の意を示して辞表を提出、伊東外相は辞任した(高島外務事務次官は慰留され、留任した。)。

 さらに「1000カイリ・シーレーン防衛」についても、アメリカ側との見解の不一致を露呈することになる。同年6月10日からの日米安全保障事務レベル協議において、アメリカ側は日本列島周辺空域と1000カイリ・シーレーン防衛の早期実施を強く求め、ソ連潜水艦とTu-22バック・ファイアー爆撃機への対処能力の保持を強く要求した。こうした能力を日本が保持することは「防衛計画の大綱」で定められた基盤的防衛力の水準を逸脱するものであり、園田直外相は「平屋建てをいきなり10階建てにしろというものだ」と発言、「1000カイリ・シーレーン防衛」への努力を否定しかねない認識を示した。

 しかし一方で、鈴木政権は防衛力向上に前向きな努力も行っている。1982年度予算において予算概算要求伸び率がゼロのなか、防衛費は別枠とし、政府内外からの防衛費圧縮圧力のなかで防衛費対前年度比7,5%増をおこない、さらに翌1982年には1983年度予算ゼロ・シ-リングを決定し、衆議院予算委員会で渡辺蔵相の「防衛費を聖域とせず」との答弁や、大蔵省の防衛費対前年度比4,7%増加提示にもかかわらず、最終的な防衛費対前年度比7,8%増加となった。これは、26年ぶりに一般会計歳出の対前年度比伸び率6,2%を上回り、一般会計全体にしめる防衛費の割合も26年ぶりに、それまでの低下傾向からの上昇であった。しかし、それでも少なく、いかに日本が国防、国家安全保障を軽視しているかの証明だった。

  翌年、1982年には、1月5日の渡辺大蔵大臣の防衛費をゼロ・シ-リングの「別枠とせず」との発言があり、大蔵省は防衛費を対前年度比4,7%増加すると提示し、5月31日の総理府世論調査で防衛費抑制の声が増加したものの、ワインバーガー国防長官の「1000カイリ・シーレーン防衛」のための防衛費の対前年度比12%増加要請や、マンスフィールド駐日アメリカ大使の防衛費ゼロ・シーリング別枠要請も相まって、防衛費の対前年度比7,8%増加を決定した。

  さらにこの年の7月23日には1983年から1987年までの防衛力整備計画である「56中期業務見積もり(56中業)」を国防会議で決定する。この「56中期業務見積もり」では、我が国の国土、地勢に適した防空能力、対潜水艦戦能力、水際防御能力の充実近代化、電子戦能力(ECM,ECCM能力双方の強化)、継戦能力、即応態勢および抗たん性の向上、指揮通信統制情報(CキューブドI)、後方支援、教育訓練態勢の充実、近代化を急ぐことを目的とされ、1987年までに「防衛計画の大綱」の定めた防衛力整備達成を促した。「56中期業務見積もり」ではF-15戦闘機を75機増備による138機態勢の確立、現有F-1支援戦闘機の後継として次期支援戦闘機FSXを24機、グラマンE-2Cホ-ク・アイ早期警戒機9機の新規配備、半自動警戒管制システム(バッジ・システム)から自動警戒管制システム(新バッジ・システム)への更新、ナイキ・ハーキュリーズ地対空ミサイルから後継のMIM-104 PATRIOT防空システム6個群の導入、高射砲にかわって81式短距離地対空ミサイル27基の導入、航空基地防空シェルターの新設、P-3Cアップ・デートⅡ型50機増備による75機体制の確立、護衛艦8隻と護衛艦搭載対潜水艦戦ヘリコプター8機による「八八艦隊」体制の確立、艦船および航空機に対艦ミサイル「ハープーン」の配備・搭載、等による防空体制の強化と「1000カイリ・シーレーン防衛」であった。このような「56中期業務見積もり」に基づく防衛力を整備していくと1984年には、防衛費が対GNP比1%を越えることが確実な情勢とされた。政府は政府公式見解として防衛費の対GNP比1%突破も容認することを、7月20日に決めており、1976年の三木武夫内閣の迷断にかわる英断であった。(注11)

  1982年秋に、鈴木内閣にかわって誕生した中曽根康弘内閣は、これまでの内閣とは大きく違ったものとなった。以前の大平内閣、鈴木内閣においては、防衛政策はアメリカからの圧力、要請によって仕方なく整備、増強するという形であった。しかし、この中曽根内閣では日本自らの積極性が示されたのであった。

  レ-ガン政権では、アメリカが日本に、軍事技術を供与し、武器を輸出しているのに、日本は武器輸出三原則をたてにアメリカに輸出できないのはおかしいとの認識が生まれ、その旨を日本政府に伝えていた。武器輸出三原則を理由にアメリカ等に武器輸出を禁止しながら、サウジ・アラビア国家警備隊に川崎重工業KV-107中型ヘリコプターが輸出され、アメリカの猟銃シェアの20%が日本製であり、豊和工業でライセンスされているアメリカ開発AR-18セミ・オ-トマティックライフルが民生用として輸出されながら、東南アジアや南アメリカでは警察軍に使用されている事実があった。

日本は、「平和国家としての日本が、紛争当事国に武器や軍事技術を提供することは、たとえ相手がアメリカであってもできない」と旨を伝えて、対米武器輸出を断固拒否していたが、アメリカ側がこれに満足するわけもなく、軍事同盟を結ぶ国家関係として不十分であり、共同開発・共同生産などによって武器生産・開発にかかるコストを削減する貴重な機会も逸していた。中曽根首相は1983年1月14日に「官房長官談話」でアメリカに対しての武器技術供与を発表、懸案を1つ解決している(注12)。しかし、対米武器技術供与では問題の根本的解決とはならず、次期支援戦闘機FSX(現F-2)の開発では禍根を残し、対潜哨戒機P-3Cの後継機種P-7の共同開発も断念するなど問題を残している。

 また、同年1月18日に訪米し、「日米同盟関係は世界の平和と繁栄のために死活的に重要である」との認識で一致した。そして、翌日19日には、ワシントン・ポスト社主キャサリン・グラハム氏との会談で「日米は運命共同体」であり、「日本列島は不沈空母である」、「有事の際は、津軽海峡、対馬海峡、宗谷海峡の三海峡を封鎖する」と語り、それがワシントン・ポストに報道された。この発言は日本でも大きく報道され、ひじょうに大きな反響があり、それはほとんどすべてが批判するものであった。この一連の中曽根首相の発言は波紋を広げ、その反響の大きさから一時、発言をしていないとの言明に至った。

しかし、ワシントン・ポストから会談内容を録音していたとの発表がなされると、発言内容を認めるなど、事態は二転三転した。中曽根首相は1月26日には一連の発言について「国守る決意しめした」と弁明、2月1日には「不沈空母はハリネズミ(専守防衛)と同じ」と発言、弁明に終始した。しかし、2月21日の朝日新聞の世論調査では、対米武器技術供与に反対する声が69%、不沈空母発言に反発する意見が61%となるなど日本国内での評判は悪かった。しかし、この発言はアメリカ政府内では、日米同盟の結束の強さを示すものとして好意的に受け取られ、大平内閣、鈴木内閣で続いた防衛に対する消極姿勢の挽回のひとつとなり、評価できるものである。(注13)

 この年の5月29日に行われたアメリカ・ヴァージニア州のウィアムズバーグでおこなわれたウィリアムズバーグ・サミットで、中曽根首相は日本を明確に西側の一員として、責任ある行動で示そうとした。また、このウィリアムズバーグ・サミットでの最大の焦点はソ連の中距離核戦力SS-20中距離ミサイル配備にはじまる中距離核戦力問題、そしてそれに対抗する西側NATO陣営の中距離核戦力MGM-31パーシングⅡ中距離ミサイルとBGM-109(MGM-109)地上発射巡航ミサイル(GLCM)の配備であった。そしてこの中距離核戦力問題解決の方法として、ソ連のSS-20と、西側のパ-シングⅡと地上発射巡航ミサイルを相殺する形で廃止する、レ-ガン大統領によって提案されていた「ゼロ・オプション」があった。しかし、SS-20をヨ-ロッパから撤去し、シベリア配備を認めることよってこの問題を解決しようとする案がヨ-ロッパ諸国、アメリカ国務省を中心に存在していた(注14)。このことは、西側主要先進国では日本のみがSS-20の脅威にさらされることを意味しており、日本および中曽根首相にとって許されざることであり正念場であった。

 このサミットでは、中距離核戦力パーシングⅡと地上発射巡航ミサイルを計画通りヨ-ロッパに配備する事を発表するとともに、ソ連にたいし、交渉の席につくよう呼びかけており、いわゆる「ゼロ・オプション」の方向で決着した。これは中曽根首相の成功と言えるものであり、日本の安全保障にとっても成功であった。

 中曽根内閣はまた、青森県の三沢基地へのアメリカ空軍のF-16ファイティング・ファルコン戦闘機配備を決断している。三沢基地にF-16ファイティング・ファルコン戦闘機が配備されると言うことは、非常に重要なことであった。F-16ファイティング・ファルコン戦闘機の航続距離で三沢基地に配備されると、ソ連の極東の軍事拠点であるウラジオストクを行動半径におさめるため、ソ連そして国内に大きな反発を招くことになった。しかし、Tu-22バック・ファイアー爆撃機の極東配備が70機を超えたと推測されることを考慮すると、その対抗としてF-16ファイティング・ファルコン戦闘機を配備することは至極当然の結論であった。

こうして、1984年7月に第432戦術戦闘航空団(テイル・コード:MJ)が誕生し、1985年4月2日にF-16Aファイティング・ファルコン戦闘機ブロック15が3機、三沢基地に到着する。1985年8月までに18機が到着し、第13戦術戦闘飛行隊の編成がほぼ完了する。1987年1月1日には第14戦術戦闘飛行隊がF-16C/Dファイティング・ファルコン戦闘機ブロック30で編成される。同時に第13戦術戦闘飛行隊もF-16C/Dファイティング・ファルコン戦闘機ブロック30に転換する。  

三沢基地に配備されたF-16C/Dファイティング・ファルコン戦闘機は極東ソ連軍に対する有効な抑止力として機能する事になった。

 こうして、徐々にではあるが防衛力の増強に着手する一方で、2月に発表されたアメリカの国防省統合参謀本部議長の提出した統合参謀本部議長報告書『統合参謀本部議長の軍事情勢報告』では、日本の防衛費増加、防衛力増強はまだおそい、との記述があり、1980年代に入ってからの一連の日本の防衛力増強の評価が低いことが明らかになった。

 こうしたことを受け、1987年1月24日、防衛費の対GNP比1%枠の廃止を閣議決定した。防衛費の対GNP比1%の突破は1987年から1990年までの4年連続で続いたほかは、1%以内に収まっている。このように、防衛費の対GNP比1%枠問題は、三木首相時代の1976年に決定され、以後防衛問題の懸案となってきたが、円高を契機にあっさりと覆された。しかし、閣議決定で1%枠が廃止されたものの、防衛費の対GNP比1%枠は、たびたび野党、マス・メディア等でとりあげられ、防衛議論のひとつの目安として注目され続けた。こうして、相対的であるべき防衛を絶対的な数値で縛る防衛費の対GNP比1%枠は廃止される前、廃止されてからも禍根を残すものとなった。

  こうして1970年代の米ソ中の三者の均衡によって確立されていた極東の秩序は、1970年代後半のソ連の大幅な軍事力増強と、ソ連主導の1979年のさまざまな危機を契機に、アメリカの軍事力増強とともに、アメリカの圧力ともいえるようなアメリカ主導の西側陣営の増強、特に東アジアにおける最重要な同盟国である日本の防衛力増強によって、日米の同盟関係を主軸とする秩序関係に変化した。さらに日中の接近により、ソ連・東側陣営を完全に封じ込める体制ができあがった。これは、ヨ-ロッパにおける完全な東西対決でソ連・東側陣営を封じ込めたこととともに、全世界でのソ連包囲網の形成を完成させた。

  日本もソ連封じ込め体制の一翼を担うべく、多分にアメリカからの圧力によって防衛力を増強させた。このことは当時、過大に評価、または非難されたが、客観的に見てその規模は決して過大ではなかった。さらなる努力を行うべきであったが、国内、および政府内の認識不一致により、それはなされなかった。しかし、この時期に行われたあらゆる防衛努力は、これ以前に行われたものよりもはるかに大きいものであることも事実であり、現在の防衛体制の基盤をつくりあげたことも事実である。そして、この時期に確立された日米同盟が日本の防衛を飛躍的に変化させたことも事実である。

 

 

注1 読売新聞朝刊 1979年11月15日

注2 毎日新聞朝刊 1980年2月28日

注3 第91回国会参議院外務委員会第3号 昭和55年3月27日

    http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/091/1110

注4 サンケイ新聞朝刊 1980年4月31日

注5 サンケイ新聞朝刊 1980年12月9日

注6 読売新聞朝刊 1980年12月12日

注7 鈴木善幸総理大臣とロナルド・レーガン大統領との間の共同声明

    (昭和56年5月8日) 防衛庁『昭和58年日本の防衛』資料35

注8 朝日新聞朝刊 1981年5月9日

注9 朝日新聞朝刊 1981年5月10日

注10 第91回国会参議院本会議第13号昭和55年5月14日

    http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/091/1110

注11 昭和58年から昭和62年までを対象とする中期業務見積もり整備方針

    昭和57年7月23日 国防会議了承 『昭和58年版日本の防衛』資料31

注12 対米武器技術供与についての官房長官談話 昭和58年1月14日

    『昭和58年版日本の防衛』資料38

注13 朝日新聞朝刊1983年2月21日

注14 新井弘一杏林大学教授の証言

 

 

 

 

第2章 新聞における安全保障の論調

 

  第一節 1980年代 新聞の情勢

 

 新聞は日々、安全保障は当然のこと、その他のさまざまな事象を報道しており、その世論への影響力は絶大なものであると推測される。安全保障を含め、その他の分野もさまざまな角度から、さまざまな紙面で取り上げられているが、新聞社の方針を表明しているものとして社説がある。この社説によって日本の代表的新聞社の各事象への考え方、主張、提言、方針を考察する。

  1980年版『新聞年鑑』によると、読売新聞は東京都、神奈川県を中心とする首都圏、関東地方での売り上げが大きく、特に埼玉県では他社を引き離して圧倒的な売り上げを誇っている。近畿地方では大阪府において、朝日新聞との苛烈な市場占有率のトップ争いを繰り広げているが、近畿地方で二番目の人口(全国5番目、当時)を誇る兵庫県では、地方紙である神戸新聞に押されて、朝日新聞と市場占有率トップの座をめぐって激しく争っているなど、関東地方、首都圏より多少苦戦しており、他の近畿地方の各府県でも同様である。中部地方においては、特に中京圏において、地元紙である中日新聞が非常に大きな市場占有率を誇っており、読売新聞の部数はあまり売り上げを伸ばしておらず、市場占有率は5%前後と苦戦を強いられている。他の中部地方でも地元地方紙が市場占有率において、大きなシェアを占めており、その影響力は限られているといえる。北海道では、地元地方紙である北海道新聞に市場占有率首位の座を確保されるのみならず、第二位の朝日新聞、とも市場占有率を引き離されており、その影響力は限られていると言って良いだろう。同様に、東北地方、中国地方、四国地方においても地元地方紙が圧倒的な市場占有率を誇っており、市場占有率10%台である読売新聞の影響力は限られていると言える。九州地方においては、読売新聞社西部支社を置いており、福岡県を中心に販売に力を入れており、福岡に拠点を置く西日本新聞の地元での力は強いながらも、市場占有率20%前後を確保している。他の九州地方では、他の地方同様であり市場占有率は10%台であるが、沖縄県においては販売拠点すらもっておらず、影響力は皆無に近いと言って良いだろう。読売新聞は首都圏を中心とする関東地方、大阪府を中心とした近畿地方など、都市部を中心に売り上げ実績を残している。

 朝日新聞は、首都圏を中心とした関東地方において、市場占有率トップの読売新聞に大きく引き離されつつも、第二位の座を確保している。近畿地方においては、読売新聞との市場占有率トップ争いを続けている。中部地方、中京圏では地元地方紙で、非常に大きな市場占有率を誇っている中日新聞に次いで第二位の市場占有率、10%前後を確保している。他の中部地方においても中京圏ほどではないにせよ、市場占有率において第二位の座を確保している。北海道においては、地元地方紙である北海道新聞が市場占有率に置いてシェア50%を超えて、圧倒的首位を誇っており、大きく水をあけられているものの、朝日新聞はシェア15%近くを確保しており第三位の座を確保しており、読売新聞と市場占有率第二位の座を争っている。東北地方、中部地方、四国地方においては地元地方紙が大きな市場占有率を占めているが、朝日新聞は読売新聞と同様に、これら地方でも発行部数こそ少ないものの市場占有率において第二位もしくは第三位の座を確保しており、このことは九州地方についてもいえることである。ただ、沖縄県における朝日新聞の市場占有率は0,0%と、その影響力は皆無であると言っていいだろう。朝日新聞は、首都圏、近畿圏での売り上げが多いが、日本全国に販売拠点を確保しており、地元地方紙ほど販売力はないものの一定の販売力を確保している。この点、首都圏、大阪府などの都市部を売り上げの中心とする読売新聞との違いである。

  毎日新聞も読売新聞、朝日新聞と同様に首都圏、近畿圏を中心とした都市部での売り上げを中心としているが、読売新聞、朝日新聞に続く市場占有率第三位に甘んじており、またその売り上げは低下傾向にある。都市部である中京圏では、非常に大きな市場占有率を誇る中日新聞と、読売新聞、朝日新聞との争いを強いられており、市場占有率は5%前後にとどまっている。そのほかの都市部でない地方でも、販売力のなさから売り上げは少ない。

  サンケイ新聞は大阪府においては市場占有率20%台と、読売新聞、朝日新聞についで第三位を誇っているが、同じく近畿地方の他府県では市場占有率が5%前後と苦戦を強いられている。そして、サンケイ新聞は東京都でも地元紙である東京新聞に市場占有率において僅差で破れるなど、苦戦を強いられており、首都圏、関東地方での市場占有率は5%以下と、その影響力は非常に限られたものとなっている。他の地方においては、販売拠点の少なさから販売部数をほとんどのばすことができていない。サンケイ新聞は大阪府及び、都市部という限られたなかでの影響力といえるだろう。(注1)

 

 

注1 『1980年版新聞年鑑』

 

 

 

 

 第二節 79年危機以前の国際情勢認識と外交政策への提言

 

  まず、1970年代後半に次々と表面化していくソ連・東側陣営の攻勢について新聞各社はどのような認識を持っていたのであろうか。相当程度、ソ連・東側陣営の攻勢がすすんでいた1979年初頭の各新聞社の外交にたいする社説で検証する。

 

第1項       読売新聞

 

 昭和54年(1979年)1月3日の読売新聞の社説では『八〇年代に備える自主外交を』(注1)と題して、まず国際情勢、東アジア情勢を評している。

日本には

「緊張を増幅させかねない要因に満ちており、我が国外交は、慎重な自主的対応を求められよう」

としている。その内容は

「日米対中ソという戦後アジアの冷戦構造は完全に崩壊し、新しい時代を迎えることになる。」

との認識を持ち、

「日・米・西欧に中国も加わった強調と融和が進み、ソ連が孤立感をすすめている」

との判断を有している。具体的には

「アジアでは『米・日・中の反ソ枢軸』が結成されつつあると、ソ連は受け取っている。中東でも、ソ連は和平の枠組みづくりから締め出されている。」

と指摘し、

「その孤立感から、ソ連は無理な軍備増強を続けようとしている。」、

「ソ連の体制的な硬直化と構造的な経済停滞が目立っている。」

という情勢判断から、

「ソ連の被害者意識を強めるな」

との小見出しをつけ、

「国際的な孤立感を強めさせると、伝統的なソ連の”被害者意識”、危険なまでに刺激することにもなりかねないだろう。」

と、ソ連包囲網を形成することによるソ連孤立化に懸念を示している。そして、ソ連の孤立感を拭うために、

「当面、中ソ対立が緩和しそうもないだろうだけに、西側、特にアメリカには、ソ連の孤立感を和らげ、対話と強調に引き出す努力が求められる。」

と、アメリカに対し、対ソ緊張緩和への努力を求めている。そして一応、

「ソ連にも、イデオロギー的な硬直から抜け出して対話に応じる姿勢が望まれるのである。」

という文章によって、ソ連側にも努力を促しているものの、全体的なトーンとしては、西側、特にアメリカの自重および、譲歩を促す内容になっている。また、ソ連がベトナムと友好協力条約を結び、関係を強化させたことをふまえ、アジアにおける中ソ対立に日本がどう対応していくかについて、

「我が国が、中国の外交戦略との不一致を念頭に置き、自主外交を貫きながら、国防をのぞく中国の近代化に協力していくことは、アジアの歴史にとって画期的な意義を持つことになるだろう。」

と、日本の対中国外交の積極化を支持している。このことは、アメリカに対して、ソ連の孤立化を防ぐように求めている一方で、日中のさらなる緊密化という対ソ連封じ込めを提案するものであり、矛盾が生じていると言える。

また一方で、日本のソ連に対する政策として、

「しかし対ソ関係改善の努力を怠ってはなるまい。『有事立法』論争などでソ連を刺激するのを避け、経済挙力などを通じて対日不信の解消に努め、平和条約の締結を目指して行くべきだろう」

と、対ソ関係の正常化を日本政府にすすめている。対ソ関係改善はもっともなことであるが、それと全く関係のない、純国内問題であるはずの“有事立法“を引き合いに出してくるのは疑問である。また、ソ連の対日不信の解消を一方的にあげ、それに対しての日本の対ソ不信の解消を求めないのは問題があるのではないか。

 この読売新聞の昭和54年1月3日の社説は、アジアにおいて日米中による対ソ包囲網の形成という認識を前提としている点、ソ連の大幅な軍事力増強と構造的な経済停滞を指摘している点は評価できる。一方、対ソ関係改善は当然であるが、主権国家として当然の権利であり、法治国家として当然の義務である“有事立法“とその論議を、「ソ連を刺激する」という理由で避けるべきという点においては大いに疑問が残る。本来、当然に整備されているはずの「有事立法」の整備を進めることを否定するばかりでなく、”有事立法”を議論することまで遠慮するとは、言論機関としてどういった認識なのだろうか。ましてや本来、国内問題であるはずの議論を、「ソ連を刺激する」という理由で忌避するのには、納得できない。こうして、“有事立法“の整備、論議を行わないことは、自衛隊の円滑な行動を阻み、日本の防衛力の低下を招くという、ソ連にとって有利な状況を作り出すもの、ソ連の拡張主義、膨張主義を促すものである。

 そして、経済協力を通じてソ連の対日不信感を払拭するという読売新聞の提案においても大いに疑問が残る。政権維持、政権浮揚に利用され、軍事転用される可能性のある経済協力を、対日不信感の払拭という目的に使うことには、北方領土問題、軍備拡張を続けるソ連に対して不信感をいだいている日本が行うべきことではない。現にシベリア開発への日本、日本企業の協力がソ連経済の浮揚に用いられるというソ連の強化につながり、おなじくソ連への経済協力の一環として行われた石川島播磨重工業の浮きドック輸出事業が、民間用として契約され輸出されたものの、結局は軍事利用されていたという事件を考えても、敵対的といえる国家関係にあり、拡張主義、膨張主義の国家にたいする安易な経済協力を提案するのは無責任でないかと思える。この読売新聞の社説は、情勢認識はまっとうなものであるが、情勢認識から、それへの対応についての方策については大いに疑問が残るものになっている。

 

注1 読売新聞朝刊昭和54年1月3日

 

第2項       朝日新聞

 

 朝日新聞の1979年(昭和54年)1月1日の社説「70年代最後の年」(注1)では、以下のように記されている。「平和のための戦略」という小見出しで、

「とくに日本が最も重要な課題として取り上げるべきもの」

として、

「第一は、平和のための総合戦略の確立である。その方向で整合性のある国内政策、外交政策が求められている。総合安全保障という言葉が、よく使われる。大平首相も就任直後の記者会見で言及した。これについては、総合安全保障体系のなかで、軍事力の役割が相対的に低下する方向にあることに留意する必要がある。安全保障とは、国民の生活がさまざまな脅威から守ることだが、資源、エネルギー問題など、脅威の種類が増えているし、安全保障の手段も、外交努力、経済交流、文化・人材交流など、多様化している。もともと国土がせまく、人口が都市に集中している日本のような地理的条件のところでは、軍事的な手段は、安全保障にはあまり有効ではない。相互依存が進む世界で、日本がどの国とも仲良くする『全方位外交』を基本とするのは当然なのである。」

と記している。この社説では、平和のための総合戦略として、全方位外交を基本にすべきとしている。その理由としては、世界が相互依存に進んでいることを理由にしているが、確かに、世界は年々相互依存が進んでいる。しかし、軍事的に、拡張主義を続ける国(この当時の場合はソ連)が存在する限り、二国間の軍事同盟である日米安全保障条約を中心に据えたバイ・ラテラルの安全保障関係を否定できるわけはなく、現実的には“全方位外交“の実施は困難である。また、確かに、以前と比べ、年々軍事力の役割が相対的に低下していることも事実であり、経済、資源等、安全保障の手段も多様化していることは事実である。しかし、第一節で記したように、ソ連、東側の軍事的拡張主義を中心とした従来からの軍事的脅威の存在が低下したわけではない。ましてや、社説が指摘しているような

「もともと国土がせまく、人口が都市に・・・・・軍事的な手段は、安全保障にはあまり有効ではない。」

とのくだりは、極東、そして日本周辺で軍事力を増強させ、日本に脅威を与えているソ連の存在に対応していかなければならない日本の現状を無視しており、軍事的手段の無効性を訴えるための恣意的な理由付けに感じられる。さらに、

「平和条約を含むソ連との関係改善の具体的な措置を積極的に進める必要がある。日米安全保障条約の軍事的な側面をいっそう薄めていくことも不可欠である。昨年前半、外国からの『ただ乗り』批判をひとつのてことして、防衛費増大、防衛生産拡大の議論が目立った。後半には有事立法問題が浮上した。しかし、日本周辺では、朝鮮半島などを見ても、むしろ軍事力増強や有事想定の必要性が減る事態が進行している。歴史の流れに逆行するような動きは厳に抑制すべきである。アジアでは、とくに非軍的な方策が重要である。平和的手段ですべてに処するよう政策を体系化していくことは、非核保有の大国として我が国の義務と考える。」

と記している。この時期、日本周辺では徐々にソ連の軍事力が増強されつつあり、この社説が言うような事態とは逆に、有事の懸念および、軍事力増強の事態であった。つまり、防衛費増大や有事法制の整備が必要なわけであり、さらなる日本とアメリカの緊密な軍事を中心とする同盟の強化が必要なときであった。そうした事態において、日本の軍事的、外交的な強化につながるようなことを否定し、軍事的に拡張主義を続けるソ連との関係改善を進めることは、日本の国益を損なう外交となってしまうおそれが充分ある。また、アジアでは非軍事的な方策が重要であるとしているが、なぜアジアでは非軍事的な方策が必要なのかの根拠は記されていない。また、平和的手段ですべてに処するように政策を体系化していくのが日本の義務としているが、軍事の抑止力のない平和は非現実的であり、すなわち平和的手段だけで全てを処することは不可能であり、世論に重大な影響を与えるマス・メディアとしては無責任な言動である。

  朝日新聞は同時期である1979年(昭和54年)1月4日に「外交の体質を見直そう」(注2)と題して、外交に対する提言を行っている。冒頭で

「部分的には、ときには明るい薄日の射すことはあっても、地球全体を覆う猜疑、不安、敵意の黒い霧は、厚くたれ込めたまま低迷している。おそらく今年も、同じ空模様が続くだろう。」、

と1979年の情勢を的確に指摘している。また、

「国益至上主義は、しばしば『昨日の敵』を、『今日の敵』とする。同様に、盟友と信じていた国から、ある日突然、一方的に予想もしない仕打ちをされるといったことも、一再ならずあるものと覚悟しなければならない。」

といった記述が続いている。朝日新聞同年1月1日の社説に比べ現実的な認識がつづられているが、しかし、同年1月12日の社説「なぜE2C導入を急ぐのか」(注3)では、

「E2Cを急いで導入する必要があるのか、という疑問である。同機は、低空侵入機の探知にすぐれた機能を発揮するが、現在、我が国を取り巻く国際情勢から見ても、いますぐこの種の警戒機を日本が配備しなくてはならない緊急性がある、とは思えないのである。」

と記している。1976年のソ連空軍のベレンコ中尉によるミグ25戦闘機を使用した亡命事件は、日本の防空体制の欠陥、特に低空侵入機にたいする対処能力を欠いていることを露呈させた。このため、この欠陥した能力を補うために導入が決まったのが早期警戒機E-2Cである。ルック・ダウン(低空監視)能力の低い主力戦闘機F-4の警戒監視能力を大幅に向上させるもので、日本の防空能力を大幅に向上させるものであり、日本の国防能力を強化し、ひいては外交にも役立つものである。しかしながら朝日新聞の記述では我が国を取り巻く国際情勢を主な理由に、導入の緊急性を否定している。国際情勢は言うまでもなく、ミグ25亡命事件によって露呈された日本の防空能力の欠如は、E-2C早期警戒機の導入の必要性を示唆している。また、この事件によって世界に知らしめられた日本の防空能力の欠陥は、日本への侵略を誘発する可能性が大いにあった。そうした日本の防衛体制と、着実に強化されていった日本周辺でのソ連の軍事力の強化と拡張主義は、E-2C早期警戒機の必要性を示唆している。このE-2C早期警戒機をめぐる朝日新聞の見解は、国際情勢と軍事に対する認識の甘さを露呈させている。

 

注1 朝日新聞朝刊昭和54年1月1日

注2 朝日新聞朝刊昭和54年1月4日

注3 朝日新聞朝刊昭和54年1月12日

 

第3項       毎日新聞

 

 毎日新聞1979年(昭和54年)1月1日の社説の「多国間外交に取り組む決意を」(注1)では、アメリカ・中国・ソ連の三国が

「大国であるがための思惑と打算から、他を顧みないパワ-・ポリティックスを展開」しているとし、日本は

「こうした危険な大国ゲ-ム」

とは無縁であるべきとしている。そしていままでの日本外交の、二国間関係の調整に重きを置く傾向をあらため、

「日本が平和と友好に徹し、緊張を取り除いて安定と繁栄を期す以外、なんらの野心をもたぬ立場を鮮明にすること」、

そして、

「全方位の基本姿勢を堅持すること」

が必要であるとしている。特に南北問題、エネルギー、貿易といったテーマにおいて、進んで建設的役割を示し、必要に応じてとりまとめ役を演じるように提言している。ここにおいて、日本はパワ-・ポリティックスとは無縁であるべきとされているが、パワー・ポリティックスはいかなる国も避けて通れるものでないとの認識が欠如している。そして、経済的側面以外の平和、安定のための具体的な方策が示されておらず、特に重要になってくる軍事的問題にたいしての言及がみられないので現実性に乏しい提言に終わっている。

 

注1 毎日新聞朝刊昭和54年1月1日

 

第4項       サンケイ新聞

 

  サンケイ新聞における論調ではまず、1979年1月1日に、産業経済新聞社の社長・鹿内信隆氏が

「年頭の主張・ 日中条約でアジアは激動を始めた 日米安保だけで安住できるか」(注1)と題した提言を行っている。この提言では日中平和友好条約によってアジア情勢が流動を始めたとし、その事実に、ソ連・ベトナム間の平和・友好条約締結をあげている。そして、このソ連・ベトナム平和友好条約によって、さらにソ連軍の極東における軍事力増強とソ連海軍太平洋艦隊のベトナム・カムラン湾使用の可能性が高まり、日本の海上交通輸送路防衛への影響を懸念している。このことは同年1月5日の社説でも指摘され、特に増強されたソ連太平洋艦隊がベトナムをもとにマラッカ海峡に威圧を加える可能性を強調している。また、

「同盟国・中華民国(台湾)との条約を冷酷に破棄した米国の態度について、日本もまた深刻に受け止めなくてはなるまい。対ソ連戦略のチャイナ・カ-ド政策で犠牲になった中華民国の今日が、軍事小国・日本の明日ではないか。」

と、20万強という周辺諸国に比べ決して大きくない戦力の自衛隊と、日米安全保障条約によってのみに自国の安全を維持している日本を、中華民国(台湾)を例に懸念している。この提言では、ソ連・東側陣営の結びつき強化による日本の防衛への危機と米中接近による日本孤立化に懸念を示すという、全方位外交と友好・協力を日本外交の主軸とするべきと主張する他の新聞社社説にはみられない切り口でアジア情勢、日本外交・防衛を論じている。そして、同年1月3日の社説(注2)では、アジアでは平和と安定よりアメリカ・中国・日本とソ連の対立の関係深まるだろうと指摘し、アメリカ・中国・ソ連の世界戦略のなかで

「力も、策もない」

日本は翻弄される可能性を示唆している。そうした国際情勢の認識のもと、生き残るための外交戦略の模索と、日本の安全保障政策について、国民全体の合意とのもと、確立する必要があるとし指摘している。この1月3日においてもとめている外交戦略と安全保障政策の具体的方策に、同年1月5日の社説において、

「我が国は地政学的条件から言っても、国内体制からみても、米中両国の反ソ連戦略に同調できないと言うのはいうまでもない」

と、日本がアメリカ、中国との対ソ連包囲網に加わることに否定的な意見を表明している。

サンケイ新聞の論調は、日本が全方位外交、多国間外交をとることを提言することなく、そして、アメリカ、中国との対ソ連包囲網にも否定的という他新聞社とはかなり違った内容となっている。年頭の主張、社説にみられるようにサンケイ新聞は、米中接近により中華民国がアメリカから断交されたことを例に、日米安全保障条約に防衛の大きな比重をおく日本の安全保障体制に警鐘をならすとともに、安易な中国との対ソ連連携を危惧している。

 

注1 サンケイ新聞朝刊昭和54年1月1日

注2 サンケイ新聞朝刊昭和54年1月3日

 

第5項       総括

 

 ソ連・東側の攻勢が強まりつつあるもの、劇的な変化は少なかった1978年から1979年初頭、日本の全国紙における国際情勢の認識と外交政策、防衛政策についての提言は、サンケイ新聞を除き、全方位外交、多国間協調といったものである。しかしながら、

日本の外交・防衛政策の中心に据えられている日米安全保障条約・日米同盟についての記述は見られない。現実に日本が日米同盟により西側に属している事実、日本の防衛はアメリカによって支えられていることを考えると、日米同盟にたいする態度を明確にしていない全方位外交、多国間協調という主張は、購読者に日米同盟関係の相対的な弱体化を連想させるおそれがある。それが狙いならば構わないのだろうが、字数が限られているとはいえ、日米同盟を維持する意思があるのならば、何らかの形で記述しておくべきだろう。

 

 

 

 

 第3節 アフガン侵攻後の国際認識 

 

 1979年は、アジア、中南米、アフリカ、中東と、ソ連の攻勢というかたちで、激動の国際情勢をむかえた1年であったが、11月4日の在テヘラン・アメリカ大使館占拠事件と、12月25日のソ連軍によるアフガニスタン侵攻は、それを決定づけたものであった。その衝撃は、新たなる10年をむかえる1980年代の外交・防衛政策と、それにたいする提言に反映させざるを得なかった。

 

第1項       読売新聞

 

 1980年(昭和55年)1月6日の読売新聞は社説「デタント崩す国際情勢の急転」(注1)において、以下のように記している。1970年代の米ソ関係をデタントと認識し、それが1979年にはグロ-バルな対立に拡大したとし、アジアでは米中ソの三国間の均衡の関係に大きく影響、不安定化を促進させるとしている。そうした情勢に対し、我が国は

「国際緊張の契機を作り出したソ連のアフガニスタン軍事干渉に強く反対し、ソ連軍の即時撤退を求めていかなければならない。」

と主張、それと同時に

「我が国は、アメリカはじめ西側諸国と協力して、デタントが崩れたあとの八〇年代の新しい、国際関係の構築に積極的に貢献することが望まれる。」

として、多国間協力と全方位外交を柱としていた1979年初頭の主張とちがい、対ソ連対決と西側陣営での貢献を主張、国際情勢急変への危機感をあらわしている。そして、1970年代のデタントという国際情勢認識を

「SALTを軸とした米ソ間の話し合いがあれば、地域的な紛争や、矛盾も解決できる、との楽観的な考え方に基づいていた。」

と、1970年代の国際情勢認識の誤りを暗に認めている。そして、“デタント以後“の世界の課題として、

「世界は大国中心でない新しい相互依存の構造を作らなければならない」

と理想主義的な提案をしている。アジア政策においては

「中ソ対立とインドシナをめぐる緊張の影響をまともに受けるのは東南ア諸国だ。その不安を解消するには、やはりアメリカを中心とした西側諸国が、アジアにおける政治・軍事的な責任を果たし、インドシナ紛争を”封じ込める”必要がある。」

と西側諸国主導の日本にとって現実的な主張を提言している。他にも

「(インドシナの)中立化をはかる努力をねばり強く続けていかなければならない」

など、理想主義的な記述や、日本のとる方策に軍事を含めない点など、従来の主張も多いが、現実に迫り来るソ連の拡張主義に対抗していこうとするあらたなる提言が多く見受けられる。

 

注1 読売新聞朝刊昭和55年1月6日

 

第2項       朝日新聞

 

 1980年(昭和55年)1月4日の朝日新聞の社説「平和を脅かすソ連の軍事介入」(注2)では

「米ソ両大国を軸にする世界的な緊張緩和への潮流を逆流させ、東西対決の冷戦構造を再現しかねない。」

と記しているが、すでにこの時期は冷戦が激化したと判断すべきときで、この認識は甘いと言わざるを得ないだろう。また、

「国際平和の維持に努力しなければ行けない。そのためには、ソ連の行動にたいして反対の態度をとり続けるべきである。」

との記述によって、ソ連のアフガニスタン侵攻を非難している。解決方法としては、

「アフガニスタンの平和と安定を回復するため、に有効なひとつの機関は国連であろう。ソ連の拒否権によって国連安保理の議決が無理だとすれば、国連総会でソ連に撤兵を求める意思をあらわすことを考えたらよい。国連総会の議決には強制権はないが、ソ連に反省を求める最も有力な国際世論結集の場である。」

と国連を重視した事態の解決を主張している。しかし、ここで記されているように、国連安保理での議決はほぼ不可能で、国連総会もあまり効力を発揮しないことを考えると、この主張は現実性が低いと言わざるを得ない。また、

「米国は、こうした国際的な意思表示の場をさしおいて、単独で対ソ連行動を起こしてはならない。西側諸国だけでなく、第三世界の国々とも協議して、慎重に対応してもらいたい。」と記述してあり、アメリカを主導とした西側陣営の、力による対決には懐疑的な味方を示している。

 

注1 朝日新聞朝刊昭和55年1月4日

 

第3項       毎日新聞

 

 1980年(昭和55年)1月4日の毎日新聞の社説、「変化する世界とわが国の対応 -国民的支持に立つ外交の展開を-」(注1)において、1975年夏のヘルシンキの全欧安保協力会議(CSCE)が東西デタントの頂点であったとし、世界の複雑化によるアメリカの政治力低下と、中国、ソ連、日本、西欧先進民主主義国の復興、反映によりアメリカのパックス・アメリカーナ(アメリカによる平和)が終焉したとしている。さらにイランの政情不安と駐テヘラン・アメリカ大使館人質事件が石油を中心としたエネルギー供給の不安を招いていることについて、80年代を“不確実な時代“と印象づけている。そのなかで冷戦については、

「米ソ関係を中軸とする東西関係は、今後とも平和共存を維持し、軍縮への努力を忘れないものと期待したい。だが、軍事力のバランスがソ連側に有利に働いたときには、戦争にいたら無くとも、西側陣営が大幅な政治的譲歩を余儀なくされる危険性が出よう。日米安保条約を通じて西側陣営にある我が国にとって、重大な関心を寄せざるを得ない。」

とし、ソ連の攻勢に対し、西側陣営に属する日本としての役割を示唆している。

また、アメリカとイランの対立関係から生じる石油供給の危機により

「八〇年代の日本外交が、自らの足で立ち、綱渡りにも似たバランス感覚と高度な外交技術を必要としてきた・・・我が国の外交政策は全面的な見直しを迫られていると言えよう。」として、情報収集および分析、国益にかなった判断、世界への意図発信の必要性を説いている。これらの主張は、多国間協議、全方位外交を唱えていた1979年の社説と大きく異なった、アメリカを中心とした西側陣営諸国との協調、行動するという親米・親西側陣営色と国益重視のための自立性を主張したものとなっている。1979年に立て続けに発生した問題に対する危機感から、外交政策への提言を変更したものと考えられる。一方で、同年1月6日の社説「米ソは『冷戦』に復帰するな」では(注2)、ソ連のアフガニスタン侵攻を「自己の立場を固めるため」

のものとして非難しているが、ソ連のアフガニスタン侵攻に対抗するための第二次戦略兵器削減条約(SALTⅡ)の上院での批准審議延期要請や、パキスタンへの軍事援助再開方針に対し、

「米側の反応も、ソ連同様に冷戦的である。」

と指摘し、アメリカの制裁行動にも批判的な立場をとっており、米ソ両国がデタントへの復帰を実現するように主張している。さらに同年1月26日の社説「米ソ対立と西欧のバランス感覚」では、西欧諸国の独自性、例えとして、フランスのモスクワ五輪への参加表明、アメリカの対ソ連制裁に同調しない姿勢、そして西ドイツ首脳の対東側会談の予定通りの実施を、緊張緩和政策を放棄しないものとしてあげて、

「現実的、理性的な対応を選んでいる」、

「西欧をソ連への短絡的反応から遠ざけ、手傷を負った緊張緩和へ向かわせている。これは、西欧の弱さではなく、国際外交でもまれ抜いてきた危機克服のバランス感覚」

と評価している。こうした主張は同年1月4日の同社社説と趣が異なり、ふたたび全方位外交の主張の方向へ転換したように感じられる。

 

注1 毎日新聞朝刊昭和55年1月4日

注2 毎日新聞朝刊昭和55年1月6日

 

第4項       サンケイ新聞

 

  1980年(昭和55年)1月5日のサンケイ新聞の社説では、「許されぬソ連の武力侵攻」(注1)として、ソ連軍によるアフガニスタンへの武力侵攻を、ソ連がインド洋に進出するため、およびアフガニスタンの衛星国化を狙ったものと分析した上で、極東に最新型T-72戦車が300両配備されたことに着いて、陸上戦力の本格強化を狙ったものであるとして、日本に警鐘を鳴らしている。また、同年1月4日の社説ではSALTⅡ調印、中ソ国家関係正常化交渉などによってすすんでいたデタントが、ソ連の対外拡大・軍備増強や、欧州での米ソ核競争やインドシナにおける中ソの争い、そして決定打としてのソ連軍のアフガニスタン侵攻によって、冷戦が激化したと判断、同時に規制の国際秩序がくずれていく大きな変化という、一種のカオス状態にもなっていると記している。そうした情勢での日本がとるべき基本的外交姿勢として、国内での意見対立の解消、基本方針を一本化する調整機能の確立の必要性を説き、さらに、

「相互依存関係のとくに強い日本にとって最も重要なことは国益と人類利益をいかに調和させるかと言うことにつきる」、

「さらに大切なことは国際信義に即した原則で常に堂々と筋を通す」

ことだとして、貿易で成り立つ日本のあるべき姿として、国際信義と人類利益及び日本の国益の調和のかねあい、そして国内での意見、方針の調整を説いている。また、デタントが終わったことを明記し、ソ連軍の軍備増強が進んでいることをも明記しているのは他社の社説には見られないことである。

 

注1 サンケイ新聞朝刊昭和55年1月5日

 

第5項 総括

 

 1979年の激変する国際情勢と、それを締めくくるかのように発生したソ連軍のアフガニスタン侵攻は、各社に大きな衝撃を与えたことは事実であり、それによって、主張が従来と異なってきている。それが読売新聞で、1979年からの大きな主張の変更は1979年の危機を真に受けたものと思われ、デタントの終結を意識している。一方で、従来のものと整合性を採らないと行けない事情もあり、混乱が見られる。毎日新聞がそれにあたり、ソ連の一連の行動を非難し、それに断固として立ち向かうべきとする姿勢を見せながらも、デタントに未練があるようで融和的な行動をとるように求めたりと、一貫性が見られない。朝日新聞においては、対決姿勢を避けるべきとし、その代案としての方策が国連による国際世論という実現性の低いものである。

 

 

 

 

  第4節 日米同盟についての提言

 

 1981年5月4日に訪米し、7,8日の両日にレ-ガン米大統領と会談した鈴木首相は、その会談においては、防衛問題を中心に行われ、会談後の日米共同声明では日本とアメリカは「同盟関係」にあるとしるされた。この鈴木首相訪米と、その時の日米共同声明にたいして、日本の新聞はどのように報道したかを検証する。

 

第1項       読売新聞

 

 1981年(昭和56年)5月4日の読売新聞の社説「理解させられるか『総合安保』」(注1)と題して、鈴木首相の訪米を前に、日米首脳会談にむけての日本のあるべき姿勢を訴えている。そのなかでは、やはり安全保障についての記述に多くがさかれてある。

「『力による平和』をめざすレ-ガン大統領の登場で、考え方の差が、さらにきわだってきたようにみえる。」

との記述で、日本とアメリカの”防衛摩擦”を懸念している。さらに

「しかし、いつまでも、米側が、我が国の防衛力強化を求め、日本側が弁解する、というパタ-ンを繰り返していても仕方がない。」

と、1979年の国際情勢の激変以来のアメリカによる日本の防衛力強化要請と、それに反発しながらも応じてきた日本の姿に疑義を唱えている。

そして、日本がとるべき立場、政策として、防衛力整備、経済協力の拡大をあげている一方で、

「米ソ全面衝突の可能性に対応するような軍事的能力を求められても、憲法などの制約上、不可能である。」、

「軍事的措置だけで、平和を守れるとも思わない。」

と、アメリカが望むかたちでの日米同盟の強化には否定的で、

「それぞれの国情に応じたやり方で、国際的責任を果たす以外にないだろう。」

と、日本では推進することが困難な、防衛・軍事的ニュアンスをできうる限り排した「総合安全保障」の概念での日米協力関係の構築を求めている。この社説では、日本のとるべき西側陣営の一員としての国際貢献の方策について、あくまでも日本に存在するあらゆる制約の中においてのみ軍事的貢献を認め、そして日本が実施できない範囲の軍事的貢献への代替案として「国情に適した」もの、すなわち非軍事的な方策を提案している。

 日米首脳会談が終わり、日米共同宣言が行われたあとの同年5月10日の社説、「問われる『日米同盟』時代」(注2)と題し、日米「同盟」の関係に懸念を示している。

「同じ目標にむっかて、共同して行動するという幅広い解釈をすべきなのだろうが、同盟というと、日独伊三国同盟という”亡霊”が思い出されるせいか、軍事色を帯びることが懸念される。」

と、戦前の事例を持ち出して、さらに”亡霊”という言葉を用いて、不安を煽りかねない表現で懸念している。また、

「日米中ソの四カ国が影響しあっているアジアでは、『同盟』が軍事的色彩を持たないよう、細心の注意が必要である。」

と、前述の同盟という言葉の持つ軍事的意味合いへの不安からさらに、軍事的意味合いを持たないようにと、注意を促している。そして、同盟に軍事的意味合いを持たさないことのたいする対案として、

「『同盟関係』といっても、個別政策や、対ソ・アプローチに違いがあってもいいはずだ。もちろん、緊密な協議がなければ『同盟関係』は成立するものではない。」、

「我が国も、もう少し、外交的な選択の幅を広げたら良い。」

として、「同盟関係」を認めながらも、アメリカ重視のみにならないように提言している。具体的には

「アジアの平和と安定に協力しあったらよい。特に、アジアの平和維持の核となるべき東南アジア諸国連合の経済的自立を助けるため『同盟』の力を見せるべきである。」

として、同盟に軍事的意味合いをもたせないために、経済によって同盟を活用すべきとしている。さらに、鈴木首相が述べた「自分の庭先を守るのは当然のことだ。」という、1000カイリ・シーレーン防衛にたいして、この社説は

「だが、庭先が、『グアム以西、フィリピン以北』の面にまで拡大していくのではないか。周辺海空域の監視には、P3C、F15など、巨額のカネがかかることを、首相は十分承知しているのだろうか。」

と、1000カイリ・シーレーン防衛がさらに拡大していくことを懸念し、その実施にたいしても大幅な戦力増強が不可決であること、そのために莫大な費用がかかること、から否定的である。

この読売新聞1981年5月10日社説では、同盟という存在は認めるものの、その同盟が軍事的意味合いをもつことは絶対に許されないという主張である。日米の同盟は、外交、経済などの協力関係によって強化、維持されるべきもの、とし、シーレーン防衛にも懐疑的で、日本の防衛分担が専守防衛の範囲外まで及ぶことを危惧している。ここで問題となってくることがある。ひとつは、軍事的意味合いの無い同盟など存在するのかということである。日米安全保障条約はれっきとした軍事同盟の条約であり、それにより日本はアメリカと軍的に同盟となっているはずである。この日米共同宣言で鈴木首相が述べたことは現状の追認であり、鈴木首相が同盟に軍事的意味合いを持たせたわけではない。ふたつめは、このとき日本はすでに経済大国で、貿易立国であったという事実である。そのため、日本が存立していくには周辺空海域、シーレーン防衛が必要不可欠であり、それにたいしての国際的責務もあるということである。

1981年6月12日の日米安全保障事務レベル協議において、中東・湾岸地域において有事が発生した場合は、日本に司令部を置き、日本有事および極東有事に中心となり活動する第7艦隊を中心とするアメリカ海軍、第5空軍を中心とするアメリカ空軍、第3海兵遠征隊を中心とするアメリカ海兵隊を、中東・湾岸地域にスウィングすると表明している。こうした場合は、日本が独自で日本周辺を防衛する必要があり、また西側陣営の一員として、アメリカ軍が中東・湾岸地域にスウィングし、抜けた穴を埋めなければならないということである。そのためには戦力増強もやむを得ず、1000カイリ・シーレーン防衛を引き受けることは最小限度の責務である。それを否定する場合は、何らかの代案を用意する必要があるのだが、読売新聞1981年5月10日社説にはそれがない。 

 同年5月14日の読売新聞社説「首相は『事実』を率直に語れ」(注3)では、日米共同声明の日米「同盟関係」の解釈をめぐる問題を取り上げている。ここでは、

「日米関係に軍事的要素も含まれるからこそ『同盟』という言葉が一人歩きして、危険な『軍事同盟』そのものに発展していかないよう、警戒していかなければならないのだ。」

と、やはり同盟の持つ軍事的意味合いにたいして警戒感を露わにしている。また、「周辺海空域の防衛」にたいしては、日米安全保障条約第五条の、武力攻撃に対する日米の共同防衛は、我が国の施政の下にある領域に限定されているとし、憲法でその行使が認められていないと解釈されている集団自衛権に抵触するおそれがあるとして、周辺海空域の防衛を非難している。同盟という言葉の持つ意味については前述したように、軍事的意味合いを否定できるものではない。また、「周辺海空域の防衛」、1000カイリ・シーレーン防衛にについて、この読売新聞1981年5月14日社説は、憲法がその行使を認めていないと解釈されている集団自衛権に抵触するおそれがあると指摘しているが、「周辺海空域の防衛」、1000カイリ・シーレーン防衛は、基本的には日本独力で防衛するものとされており、読売新聞社説が指摘する集団自衛権とは本来関係ないものである。しかし、日米安全保障条約、憲法によって両国の共同防衛は日本の施政権の下にある領域に限られることを指摘している読売新聞社説は、アメリカ一国で世界安定を維持することのできなくなった現状と、さらなる役割を求められる発展した日本、日々進化する軍事技術を考えれば、日米安全保障条約や憲法の意味、有効性などをもう一度考えねばならないということを再認識させるものである。 

 1981年の時点における読売新聞の日米同盟に関する見解は、総体的には認めるものの、それが軍事的なものに及ぶことにはいっさい認めないというものである。このことは、日米安全保障条約に対する見解にも関わってくるが、そのことについてはふれられていない。日米同盟の関係は、総合安全保障にかなう、経済等の非軍事のものを推進していくことを主張し、読売新聞の主張する経済を中心とした総合安全保障にとっても重要になってくる日本周辺海空域と1000カイリ・シーレーンにたいしても否定的見解をとっている。

 

注1 読売新聞朝刊昭和56年5月4日

注2 読売新聞朝刊昭和56年5月10日

注3 読売新聞朝刊昭和56年5月14日

 

第2項       朝日新聞

 

  1981年5月における朝日新聞の日米同盟関係に関する見解を検証する。1981年(昭和56年)5月10日の社説「『同盟』という名の危険な道」(注1)と題して、日米首脳会談が、レーガン大統領のペースで、アメリカの主張する強硬路線に終わったことを、「恐れてた以上の(対米)『追従』」、

「米国のペースにはまったのは、首相に確固たる平和戦略が無かったからであろう。」、

「日米関係が軍事協調路線へ一歩大きく踏み出したことをはっきり示している。」

として、非難している。そして、日本周辺海空域の防衛と1000カイリ・シーレーン防衛にたいしては、

「明らかに『日本の防衛力増強』が今回の日米会談の眼目であったことが読みとれる。」、「タカ派路線の勝利を裏書きしている。」

として、日本の防衛力増強を促す合意に否定的見解をとっている。朝日新聞の5月10日社説は、上記のような軍事協調、防衛力強化の日米合意にたいする対案としては、

「レーガン外交に距離を」、

「『非核三原則』とか『専守防衛』『非軍事大国』という言葉は共同声明からは敬遠され、わずかに『憲法』に軽くふれた程度。『軍縮の努力』も、全くとってつけたような、おざなりの言及のされかたで、・・・・」

や、同年5月14日の社説での

「米側になんといわれようと、日本は軍事力強化に向かわぬ決意と独自の平和構想をはっきり示さなければならない。」、

との記述から、「非核三原則」、「専守防衛」、「非軍事大国」、「軍縮の努力」を主張していることが確実である。日米同盟による、西側陣営の一員としての軍事を含めた関係の強化や、1000カイリ・シーレーン防衛にまで拡大された防衛力強化とは、相反する主張になっている。ソ連側・東側陣営の攻勢により激化した冷戦で、SALTⅡの行き詰まった状況のなか、「軍縮の努力」という言葉を共同声明に盛り込むことが果たして適切なのか、疑問の残るところである。また、世界第2位のGNPを誇る経済大国で、シーレーン防衛が重要となってくる貿易立国の日本が「専守防衛」、「非軍事大国」で国家としての存立は許されるのか、国際的責務は果たせるのか、という点において、現実的対案が朝日新聞5月10日社説には求められる。

 

注1 朝日新聞朝刊昭和56年5月10日

 

第3項       毎日新聞

 

  1981年(昭和56年)5月10日の毎日新聞社説「軍事色強めた『日米同盟』」(注1)、では、

「こんどの会談で日米関係が対ソ軍事同盟の色彩を濃くしてきたことは否定できない。」、「『戦争放棄』を国是としてきた戦後日本の重大な転換点となる可能性さえみせている。」、と批判的なトーンで記述している。しかし、日米同盟はもとから軍事同盟であり、敵対的行動を示す国に対しては共同で対処するものである。この日米共同声明で急に変化したわけではなく、重大な転換点となる可能性は無い。また、

「憲法九条の空洞化、実質的な改憲は進むのである。日米関係は、日本外交の基軸であり、日米安全保障体制は日本の安全保障にとって重要である。だが国際情勢は、実質的改憲を迫られるほど変化しただろうか。」

と続いている。この記述によって、日米安全保障体制、日米同盟を重要と認めているにもかかわらず、国際情勢を理由に同盟強化には否定的である。この時の国際情勢は、ソ連・東側陣営の世界規模での拡張主義が続き、西側陣営としてはそれに対抗するための関係強化、軍事力強化に迫られていた。毎日新聞5月10日社説の主張は、国際情勢認識の甘さと、軍事にたいする嫌悪感から、日米同盟強化を否定する内容となっている。

 

注1 毎日新聞朝刊昭和56年5月10日

 

第4項       サンケイ新聞

 

 サンケイ新聞は、1981年(昭和56年)5月4日に、日米首脳会談のためにアメリカに向かう鈴木首相にたいして、提言を行っている。(注1)

「『平和で活力ある国際社会を目指す日米協力』・・・・・がキャッチフレーズにすぎなかったといえる。我が国の側に、このスローガンにふさわしい実質的な国際行動の裏付けがほとんどできてなかったからである」

と、日本の西側陣営の一員としての意識の薄さ、貢献への実質的能力のなさを批判している。

「近来著しいソ連の拡大主義、第三世界、とりわけ中東の危機的状況・・・・・自由世界の平和と安定確保のため、西側民主主義陣営のいっそうの団結・協調・共通の基本的諸価値を擁護を再確認することは、けっして外交儀式ではない。」

と、ソ連の拡張主義にたいしての、西側陣営の結束をしめすため、日米首脳会談の重要性を説いている。具体的な行動策として、日本が安全保障問題、特に防衛努力を促している。このことに関して、日本が国内的制約、対外的な批判を恐れる姿勢から、消極的態度をとっており、その代替策として、

「非軍面での日本の役割を強調し、対外協力援助・・・・・を主体とする総合安全保障構想の推進こそ、軍事大国を思考しない日本にとって最適の積極的役割となる」

と主張する日本政府に対し、サンケイ新聞は

「総合安全保障、まことにけっこうである。・・・・・だが、はたしてそれだけで、同盟国の国際的役割が果たし切れるだろうか。現在ソ連は全潜水艦および海軍軍用機の三分の一を極東に配備している状況下で、我が国は専守防衛に必要なぎりぎりの自衛能力さえ保持してないのである。」

と、非軍事面での国家安全保障を確保しようとする日本政府の政策を否定的にとらえている。ソ連軍の極東での兵力増強に対応できていない日本の防衛力に警鐘を鳴らし、最低限の同盟国の役割として、専守防衛が可能となるような防衛力の整備を促している。

この5月4日のサンケイ新聞社説は、日米首脳会談を前に、日米の軍事的結束、協調と日本の防衛努力強化を主張しているという点で、他の3紙の主張、提言と大きく違っている。

 日米首脳会談の終了した同年5月10日のサンケイ新聞社説(注2)では、

「日米両国の密接な『同盟関係』があらためて確認され、」、

「わが国が西側諸国の主要な一員として果たし得る『適切な役割分担』についてもかなりはっきりとした大ワクが示された。」、

「『民主主義および自由という両国が共有する価値の上に築かれている』日米両国間の”同盟関係”が、今回の共同声明のなかで明確に再認識された、」

などと、日米首脳会談、日米共同声明での合意内容を記し、好意的に評価している。さらに、この日米共同声明のなかで、「同盟」という言葉が用いられたことについて、従来の日米共同声明などでは、

「イコール・パートナーシップ」、

「実り豊かなパートナーシップ」
が用いられてきたことと比較し、

「同盟(アライアンス)」

の言葉の重み、志の強さをくみ取っている。一方で、

「ただ、わが国では、同盟と言えばすぐ短絡的に”軍事同盟”の関係を思い浮かべがちであることから、こうした呼び方には生理的、心理的に反発する傾向がきわめて強い。そういう国民的心情が壁となって、日本では認知されにくい表現だったと言える。しかし、考えてみれば日米関係の現状を『同盟』とよばないほうがはるかにおかしい。」

と、日本国内での世論、マス・メディアにおける「同盟」にたいする批判を、その批判が生まれる日本国内での環境とともに論じ、日米共同声明での「同盟」を評価している。日本の主張する総合安全保障に関しては、

「それぞれの国の政策には、それぞれの国益にもとづいた独自性があることも当然である。」

として、一応評価はしながらも、

「しかし、同盟国である以上、自国を守ることは最低限の責務である。」

と防衛努力の向上を促している。そして、日米共同声明において、日本周辺海・空域における防衛力の改善と、1000カイリ・シーレーン防衛、在日米軍の財政的負担軽減のためのいっそうの努力が明記されたことを、

「これまでにみられなかった、かなり具体的なわが国の決意表明」

と、評価している。この、5月10日のサンケイ新聞の社説は、ここでも他の3紙と違い、日本の防衛努力の向上と、日米関係を、「同盟」としての位置づけることを評価するなど、この当時の、ソ連・東側陣営の攻勢をふまえた、防衛に対する前向きな姿勢をとっている。1000カイリ・シーレーンを評価しているのもサンケイ新聞のみとなっている。

 同年5月14日のサンケイ新聞社説「おかしな首相の同盟認識」(注3)では、

「この同盟関係という表現をめぐって『軍事的意味合いはない』と、再三再四否定する首相の認識はおかしい。」

と、日米安全保障条約という軍事を目的とする条約を締結していながら、日米共同声明で用いられた「同盟」と言う言葉に軍事的意味合いはないと主張する鈴木首相を批判、

「ことさら経済・文化関係だけを強調するのは不自然である。」

と、鈴木首相、日本政府内、野党などの認識を否定的に示唆している。むしろサンケイ新聞は、

「日本の安全と極東の安定、平和のための適切な役割分担・・・・・防衛面で結束を強めていくことこそが同盟関係の根幹でなければならない。」

と、同盟における軍事的意味合いの強調をするべきとの認識に立ち、ここでも他の3紙との主張、認識の違いを際だたせている。そして、

「同盟とは、軍事、政治、経済が一体となったものだ」

ということを、日米同盟を危険視する世論、マス・メディアに反論する形で主張している。

 

 

注1 サンケイ新聞朝刊昭和56年5月4日

注2 サンケイ新聞朝刊昭和56年5月10日

注3 サンケイ新聞朝刊昭和56年5月14日

 

第5項       総括

 

 1981年5月の日米首脳会談、日米共同声明における「同盟」問題は、大きな波紋を広げた。サンケイ新聞を除く新聞は「同盟」の持つ軍事的意味合いを否定的解釈で捉え、

日米関係、そして日本の安全保障政策は非軍事的なもので実施するべきとの主張である。こうした認識は、当然1000カイリ・シーレーン防衛や、日本周辺空・海域の自衛隊による防衛、日本の防衛力増強にも反対、もしくは否定的な立場をとる結果となっている。

 

一方、サンケイ新聞だけは、日本が西側陣営の一員としての責務を果たすために、着実な防衛力増強を実施するよう求めており、日米「同盟」にも軍事的意味合いを持たせることが当然という考えで、日本とアメリカが結束、協調し、ソ連・東側陣営の拡張主義に対抗していくことを主張している。

 

 

 

 

 第5節 「危機説」のなかでの日本の行方の展望

 

 ソ連の軍事的拡張と、それに対抗するアメリカを主軸とした西側陣営の軍備増強およびその他の措置は、冷戦を激化させていった。そして、イラン・イラク戦争におけるカーグ島の原油積み出し基地への爆撃などの戦争激化は、中東の不安定化、そしてそれにともなう原油供給への不安を煽り、「危機」が叫ばれ、「不確実性の時代の到来」とされた。こうした状況の中での、日本の代表的新聞社の論説はいかなるものだったかを検証する。

 

第1項       読売新聞

 

 1982年(昭和57年)1月1日の読売新聞の社説「あえて80年代を楽観する-平和維持に知恵と勇気を」(注1)では、1980年代に入ってからの2年間を見れば、危機や破局を、抑止、管理できることを証明したとし、西側陣営で主に不安視されていた石油の安定供給は、省エネルギー技術の開発、代替エネルギーへの転換、二度の石油危機の教訓から促進された備蓄制度、北海油田などの新たなる油田の探索、石油掘削技術の向上などで乗り切れるとしている。ソ連・東側陣営における石油供給も、ソ連本土内での莫大な天然ガス埋蔵量で発見されたこと、西側諸国の資本と技術協力によりソ連邦内での石油・天然ガスの生産が増加可能であることをあげ、ソ連が中東に軍事的にも進出する可能性は薄らいだと分析している。そして、ソ連の国防費が1981年度の5,7%増から、1982年度は5,3%増に減少していることを理由に、またアメリカの国防費も国内経済、財政を考えると軍拡は不可能と断じ、東西両陣営とも軍拡の限界がくると予測している。

 この読売新聞1月1日の社説の、石油を中心とするエネルギーにたいする考察は、間違ってはいないのだが、楽観的すぎると言えるだろう。石油の脱中東化、非OPECの促進は確かに進んだが、しかし石油の中東依存率は相変わらず高い。省エネルギー化も促進されたが、それでも限界がある。また、ソ連におけるエネルギー開発にたいして西側の資本投下や技術協力を実施することを提案しているが、この時期の東西両陣営の関係、双方の軍拡を中心とし、さらに対ソ連・東側への経済関係凍結による均衡状態を考えると、現実的な提案とは考えられない。さらに現実的でない提案をもとに、ソ連軍の拡張主義を否定しているのは、論法に無理がある。また、アメリカの軍拡が経済に与える影響も、限られた字数の中で、できうる限り数字で実証すべきである。この読売新聞1月1日の社説は「あえて80年代を楽観する」とのタイトル通り、あまりにも楽観的な観測に基づき過ぎである。

 

注1 読売新聞朝刊昭和57年1月1日

 

第2項       朝日新聞

 

 1982年(昭和57年)1月1日の朝日新聞の社説「平和の戦略をどう展開するか」(注1)では、日本およびアジア、世界の平和、安全の確保、安定においての日本のとるべき道を述べている。この社説では

「平和戦略の基盤は平和憲法にあり、非核三原則の厳守が重要な柱となることを協調したい。」

として、非核三原則の厳守と被爆体験の継承と伝達を日本の平和戦略の基本構造と定義づけている。また、80年代に入ってからの防衛費増加および1981年夏に刊行された『昭和56年版 日本の防衛(防衛白書)』のなかの記述、「守るべきものは・・・国家体制」、「真の愛国心・・」に警鐘を鳴らしている。さらに

「まき散らされる」ソ連脅威論や、靖国神社問題、教科書検定問題とともに、これら現象を「『戦前』のにおいを感じさせる」、

「戦前症候群」

と表現し、こうした傾向にたいし、

「つねに細心の警戒を怠ってはなるまい。」

と主張している。外交政策に関しては、日本とアメリカの差異、資源保有、核保有、国土面積などをあげ、

「米国の安全保障、対ソ外交政策に同調できなくて当然」、

「西側の各国が一様でない政策を採ることが、多極化世界の平和に役立つと理解すべきなのである。」

と、ソ連との対決姿勢を鮮明にしているアメリカの外交・防衛政策とは、一線を画すよう示唆している。また、

「軍事力による安全保障はますます収穫が逓減する傾向にある。」

として、日本の防衛力増強を暗に批判している。こうして、日本がとっている各種政策を批判したことについての対案として、この社説では北東アジア非核化、東南アジア非核化、米ソ核軍縮への働きかけを提案している。

  この朝日新聞の社説で一貫して主張されていることは、防衛(軍事)非難と非核である。

この社説では、抑止力という概念がないと言えるだろう。そして、ソ連にたいする認識は記述されていないが、独自外交の標榜のもとに対ソ連融和を唱えていると解釈することができる。こうした条件での提言であり、現実性がほとんどみられない。また、防衛費増加、そのほかの日本政府の施策を悪い印象をもたれている「戦前」と言う言葉で批判するのは、感情的、恣意的である。

 

注1 朝日新聞朝刊昭和57年1月1日

 

第3項       毎日新聞

 

  1982年(昭和57年)1月1日の毎日新聞の社説「軍縮への道を進もう 被爆体験国の悲願と責任」(注1)と題して、核を中心とした防衛問題に関する考察を展開している。まず、

「私たちは真剣にこの課題に対処し、半世紀気前の満州事変を皮切りに、一挙に奈落の道をたどったあの悪夢のような歴史を、決して繰り返さぬよう自戒せねばならない。」

とうたい、続いて「強いアメリカ」を公約とするレーガン大統領の政策に追随して防衛力強化する日本の施策を

「軍拡路線」

と定義付け、

「軍拡は世界の平和と安全に寄与するものだろうか。」

と、疑問を投げかけている。そして、日本とアメリカが実施する「軍拡路線」を、

「力の均衡」

として、それは

「過去に置いて軍備拡大の際限ない競争を生み、行き着く先が他ならない。」、

「軍拡によって国際緊張が緩和された例を見いだすことは難しい。」

と、日本の防衛力増強政策、アメリカの戦略兵器強化計画を中心とする軍拡によるソ連への対抗、均衡政策に反対している。

鈴木首相の「軍事大国にはならぬ」という発言や、「わが国は唯一の被爆国として核兵器の究極的な廃絶を目指し核軍縮を最重点に訴えている」との答弁に対しても、

「実体はむしろ逆行し、専守防衛に名を借りた軍拡路線を強化しつつある。」

として、非難している。こうした非難にたいする対案として、毎日新聞社説は、

「世界で唯一の被爆国として、核廃絶を率先して訴えねばならぬ義務を持つ。」

と主張している。そして、政府がこのような認識をあまり持っていないことの原因の一つに、わが国国民の

「鈍感」、

「感性の麻痺」

があるとし、ヨーロッパにおける反核市民運動を例に挙げ、わが国でこうした運動が盛り上がらないことに反省を促している。また、軍縮が進まないことの一つの原因に、国連の予算が低いことをあげ、

「戦争の危機を伴う軍事費にこんなに巨額が費やされているのに、平和を守る国連の予算は実にわずかである。」

と、指摘している。

  この毎日新聞社説では、日本の防衛力増強と、アメリカの軍拡路線を関連づけて、それらの行動が際限ない軍拡が続くと双方を非難しているが、ソ連・東側陣営の軍拡にはほとんどふれておらず、世界的な軍縮を求めているはずこの社説の主張には偏りが見られる。また、「力の均衡」や軍拡は平和をもたらさないとの記述であるが、果たしてそれが正しいのか。そして、その代案としての平和・軍縮提案が(日本は)「率先して訴える」というだけで、現実性に欠けるものとなっている。そして、ヨーロッパのような反核運動をおこさない日本の国民を批判しているが、目に見える反核運動に眼をくらまされた、これも偏った、感情的な主張と言えるだろう。この毎日新聞は国際情勢認識の低い、偏りの見られる、そして感情が主となった社説となっている。

 

注1 毎日新聞朝刊昭和57年1月1日

 

第4項       サンケイ新聞

 

  1982年(昭和57年)1月1日のサンケイ新聞の年頭の主張(注1)では、前年の1981年にあった、アメリカの下院議員が議会に提出した、日本の防衛力を強化させる提案と、その根拠としている「日本は、強大な経済力に見合う防衛負担をしていない」(ザブロッキ下院外交委員長)を引き合いに出し、また、世界の危機には個別に重点的に対処する”スウィング戦略”を実施するアメリカの戦略を関連させ、日本の防衛力増強を主張している。そして、同年1月3日の社説では、1982年の国際情勢を基に、日本のとるべき政策を提言している。それによると、START(戦略兵器制限交渉),INF(中距離核戦力撤廃交渉)もふきとぶような東西の対立関係の激化という情勢、そして、世界では、シナイ半島、ガザ自治区、レバノン、シリアを中心とした、中東情勢の混乱をあげ、アメリカ軍の中東への”スウィング”が実施されることを想定し、それに備え

「自主防衛をしめす同盟国としての責任履行」

を主張している。

その具体的な中身は、同年1月5日の社説のにて提案されている。それは前年1981年5月の日米共同声明での「適切な役割分担」、「より一層の防衛努力」との声明をもとに、サンケイ新聞は

「もう少し目に見えたもの」

にする必要があるとして、日米軍事技術協力および極東有事研究の早期着手を提案している。

 サンケイ新聞の1982年の一連の提案は、米ソを中心とした東西冷戦の激化と、極東のアメリカ軍を、中東を中心とした他地域での有事に派遣する”スウィング戦略”を前提として、日本の防衛力を、アメリカ軍が抜けた場合でも有事対処可能なように、強化するよう提案している。このことは、他紙に見られない情勢認識、主張であり、しかも当時の情勢を冷静に、現実的に認識している。この日本の防衛力を強化させるべきという主張は、日本及びアメリカを中心とした西側陣営に対する軍縮を呼びかけるのが中心であった当時のマス・メディアのなかで異彩を放っており、なおかつ国際情勢をふまえた現実的な提案を行っている。特に、”スウィング戦略”を意識した自主防衛の提案は危機感が伝わってくる。また、日米軍事技術協力を提案しているが、当時から現在に至るまで、武器禁輸や武器輸出3原則の厳守を求める朝日新聞、毎日新聞との認識の開きは非常に大きい。サンケイ新聞の日米軍事技術協力の提案は、このことによる自衛隊の武器購入の費用的な効率化などは想定していないと思われるが、こうした副次的効果も含め、本来の目的である、日本とアメリカとの同盟緊密化を推進のためには非常に有効であると考えられる。

 

注1 サンケイ新聞朝刊昭和57年1月1日

 

第5項       総括

 

  1982年の初頭における各新聞社の主張は、サンケイ新聞が日本の防衛力強化を求めるものであり、朝日新聞、毎日新聞は防衛力増強に反対し、軍縮をもとめるものである。そして、読売新聞は天然資源・エネルギーの供給危機にたいしても、軍拡傾向に対しても楽観するというもので、その内容はあまりにも楽観的なものとなっている。朝日新聞、毎日新聞の提言の背景にあるものは、当時の国際情勢、ソ連の拡張主義に対しての認識の低さがあり、また、防衛力増強にたいする、そして軍事的なものにたいしての嫌悪感、不信感があるものと思われる。また、日本、アメリカにたいしてのみ軍縮を呼びかけるという、偏った主張もある。このような主張はサンケイ新聞には見られず、対極に位置している。

 

 

 

 

 

 第6節 ウィリアムズバ-グ・サミットについての主張

 

 1983年5月29日に行われたウィリアムズバ-グ・サミットは、拡張主義を続けるソ連にたいして、西側陣営の結束をしめすものとして象徴的なものであり、その内容は対決姿勢を崩さない強行的なものでもあった。日本も当然その一員であり、日本国内に波紋を広げた。

 

第1項       読売新聞

 

 1983年(昭和58年)5月31日の読売新聞の社説(注1)では、「INF交渉とサミット声明」と題して、

「中曽根首相が28日、欧米各国首脳との個別会談で、①INF交渉は(極東を含めた)グローバルな視点から交渉する、②合意に至らない場合、米新型中距離核の西欧配備は計画通り実施することで一致したのは、このような国際的現実に照らし、当然であり、適切であった。」

として、中曽根首相がソ連の中距離核ミサイル・SS-20に対抗して、アメリカが新型中距離核ミサイルを西欧に配備することを認めたことについて評価し、

「『この(不沈空母)中曽根発言によって、日本は北大西洋条約機構(NATOの戦略に組み込まれる』とか、『集団自衛権行使につながる』-などの論議も、短絡的にすぎる。首相発言はNATO政策を支持しただけではないか。」

と記している。この読売新聞の社説にあるように、日本はウィリアムズバーグ・サミットにおいて、なんら直接的にNATOと関連した外交・防衛政策をとったわけではなく、日本はその行使が認められていないといわれる集団自衛権行使に当たるような行為はいっさいない。読売新聞社説は事実を冷静に評価し、事実に反する評論や指摘をいさめている。

 

注1 読売新聞朝刊昭和58年5月31日

 

第2項       朝日新聞

 

 1983年(昭和58年)5月31日の朝日新聞の社説「許されぬNATOへの同調」に(注2)おいて、ウィリアムズバーグ・サミットの声明と、それに同調した中曽根朱書への批判を展開している。

「密かに案じていたことが、実際におこった。主要先進国首脳会議(サミット)に出席中の中曽根首相が、米欧の参加国首脳とともに軍縮に関するウィリアムズバーグ声明に参画、これによってわが国は、実質的にNATO基本戦略への同調をすることとなった。」

と記述し、

「NATOとは直接関わり合いのない日本の首相中曽根氏は,NATO加盟の米欧首脳を前に抑止理論を説き、また『ソ連を交渉に引き出すため、米国核ミサイルのヨーロッパ配備の予定をかえるべきではない』と強調したという。これでは話が逆ではないのか。」

と、ソ連の中距離核ミサイルSS-20のヨーロッパ配備に対抗する、アメリカの中距離核ミサイルと地上発射巡航ミサイル(GLCM)のヨーロッパ諸国への配備に賛同・推進した中曽根首相と、中曽根首相がそのような行為に至った根拠となる抑止理論に批判的態度を取っている。

そして、

「首相の突出発言が1月訪米時の『不沈空母』などと同様、突如、外国で語られ、それが次第に既成事実とされていく過程に、いかにして歯止めをかけるか。選挙民の熟慮すべき点と考える。」

と、1983年1月のワシントン・ポスト紙社主キャサリン・グラハム氏との会合での中曽根首相の発言を引き合いに出し、欧米各国と対ソ連認識、対応で一致した行動をとった中曽根首相の今回の態度と行動を批判している。

 朝日新聞のこの社説は抑止理論を否定的に捉えているという前提から、この理論に基づいて構築された中曽根首相の一連の行動は批判されるという結果となっている。よって、ソ連の中距離核戦力に対抗する西側陣営の中距離核戦力増強は決して認められ無いということになる。そのため、憲法において行使が認められていないとされている集団的自衛権とはなんら関係のないNATO諸国との政策的一致も否定している。しかし、ここではソ連の中距離核戦力増強にはふれられておらず、バランスを欠いた内容となっている。また、中曽根首相の「不沈空母」発言を引き合いに出しているが、「不沈空母」発言は公的な発言ではなく、また特にそれが政策として具体化されたわけではないため、ウィリアムズバーグ・サミットでの共同声明と比較するのは不適当と思われる。

 

 

注1 朝日新聞朝刊昭和58年5月31日

 

第3項       毎日新聞

 

  毎日新聞は、1983年(昭和58年)5月31日の社説「日本はNATOの一員か -中曽根発言にみる危険性- 」(注1)と題して、中曽根首相のウィリアムズバーグ・サミットでの行動・発言を批判的に記述している。朝日新聞と同様、同年1月の訪米時の「不沈空母」発言を引き合いに出し、今回のウィリアムズバーグ・サミットでのINF交渉をめぐる中曽根首相の発言を、

「対ソ強硬発言」

と規定し、

「北大西洋条約機構(NATO)並みの”集団自衛”にのめりこもうとしている。」、

「中曽根首相は明らかに日本の非核、軍縮の期待をよそに、危険なかけに出ようとしている。」

と批判している。具体的には、ソ連の中距離核ミサイルSS-20ヨーロッパ配備に対抗するため、”力の論理”を用い、アメリカの核抑止力を重視する中曽根首相の方針を、

「軍拡の果てに米ソの核抑止力はぐらつき」

と力の均衡を批判する前提の上で、

「中曽根首相は明らかに抑止力や力の均衡を信奉している。」

と指摘している。そうした中曽根首相の姿勢を、

「アジア極東の緊張をさらに高めようとしている」

と非難、またそのような姿勢は

「憲法上認められていない集団自衛の領域に足を踏み込み、自ら国是だという非核三原則さえ、放棄しなければならないだろう。」、

「極東にもINFの配備をと言うことになった場合、それにどう答えるつもりだろうか。」と、極東に配備されることを示唆し、その場合の憲法上の問題、非核三原則への抵触を警戒している。そして、日本のとるべき役割として、

「これまでまったく未経験の核による”力の政治”に踏み込むことでなく、軍縮による経済の活性化に、尽力することだったはずである。」

と、主張している。

この主張と同様に、翌6月1日の社説(注2)「「冷戦志向目立つサミット -平和と繁栄は約束されるか- 」においても、ウィリアムズバーグ・サミットにおいて、軍縮の傾向が示されず、それが経済の復興を妨げると批判するとともに、非核三原則、平和国家という日本の国是に反するとの趣旨で批判的に提言している。

 毎日新聞も朝日新聞と同様に、力には力によって対抗する抑止理論をもとに、アメリカと協調してソ連の中距離核戦力増強に対抗しようとした中曽根首相のウィリアムズバーグ・サミットでの行動に、軍縮に反する、非核三原則に反するという理由で批判している。さらに毎日新聞は、中距離核戦力におけるアメリカを中心とした西側諸国との協調を、集団的自衛権に含まれるとの拡大解釈によって憲法上の問題にしているが、この時点では日本は集団的自衛権を政策として施行しているわけではないので、将来の事態として懸念するにとどめるなら問題はないが、政策的協調の段階で批判しているこれら記述には問題がある。しかし、日本に直接関連してくる極東における中距離核戦力配備に言及している点は、他紙に見られないことで注目される。

 

 

注1 毎日新聞朝刊昭和58年5月31日

注2 毎日新聞朝刊昭和58年6月1日

 

第4項       サンケイ新聞

 

  1983年(昭和58年)5月31日のサンケイ新聞の社説では「政治責任を果たした日本」(注1)と題して論じている。そのなかでは、

「このINF交渉で、SS-20を極東に移転するとして問題を極東にまで広げてきたのは、ほかならぬソ連ではなかったか。」

と、中距離核ミサイル問題の根本的問題をソ連にあるとしている点で、サンケイ新聞は他紙と違い、唯一主張している。そして、

「政府が『全地球規模での各軍縮への取り組み』を強く求めているのはしたがって当然であり、この日本の要求を盛り込んで政治声明に積極的に参加しないほうがむしろおかしい。が、この政治声明の持つ重要性は、じつはもっとべつのところにある。それは日米欧『7カ国の安全保障は不可分』であることを明確に認めた点である。」

と記述し、日本が他のサミット参加国とともに、ソ連に対抗する形での全地球規模軍縮と安全保障に同調したことを評価、さらに

「このことを、極東のわが国がNATO(北大西洋条約機構)軍事態勢に組み込まれる危険を冒すものだと、野党や一部言論界で悲鳴に近い非難の叫び声がすでに聞かれる。だが核戦力時代の今日、軍縮・軍備管理をふくむ安全保障が基本的に全地球的、不可分たらざるを得ないとの主張は、これら批判勢力側の繰り返してきた論理そのものではないか。自分の国だけ知らぬ顔の半兵衛を決め込み、手を汚さなければ、それが平和国家だという妄想は、もう絶対世界に通じないことを知るべきである。日本にはそれ相応に果たすべき役割があり、その枠組みは、私たちもすでに周知の通りだ。このことは米欧諸国もよくわきまえており、その枠組みの中での積極的な政治的役割が期待された。今それをわが国はようやくこの『政治声明』参加によってはじめて前向きに行動したのだ。画期的と言わねばなるまい。」

と続けている。ここではウィリアムズバーグ・サミット政治声明によってNATO化する、集団自衛権行使につながるとして批判している朝日新聞、毎日新聞などのメディアを批判し、それらメディアが常套句的に使用してきた全地球的規模での軍縮の主張との矛盾を指摘、それにたいしてサンケイ新聞は日本が果たすべき役割を果たすこと、ソ連にたいして西側諸国と一致した行動をとることによってのみ本来の国際的責務を果たし得ることを主張し、そのことが今回のウィリアムズバーグ・サミット政治声明によってはじめて明らかにされたことを全面的に支持している。

 

注1 サンケイ新聞朝刊昭和58年5月31日

 

第5項       総括

 

  ウィリアムズバーグ・サミットにおける各紙の評論は、日本の国際的責務の履行、すなわちソ連に対抗していくことを表明した日本政府を支持したのが読売新聞とサンケイ新聞であり、これに反対し批判したのが朝日新聞と毎日新聞というふうに二分化された。支持している読売新聞とサンケイ新聞は、日本がNATOと一体化し、集団自衛権行使につながると主張している朝日新聞と毎日新聞を明確に批判し、またそのことを指摘するのみにとどまった読売新聞と、さらに踏み込み政府の行動を積極的に評価したサンケイ新聞の差も大きい。一方で、政府の行動を批判している朝日新聞と毎日新聞は、力による均衡を否定し、NATOとの一体化およびそれにともなう集団自衛権行使への懸念が共通するとともに、日本の防衛貢献の拡大を懸念するにとどまり、日本の国際貢献の代案としてあげているものも、軍縮を呼びかけるなど具体的でない、教条的な平和提案にとどまっている。このことは明確に主張し、支持したサンケイ新聞との差は大きい。

 

 

 

 

 第7節 冷戦激化末期における各紙の認識

 

第1項 概観

 

 1970年代半ばからのソ連の軍事的な拡張主義、攻勢に対抗すべく、遅蒔きながら1980年、カーター政権末期から始まり、1981年にカーター政権から大統領を引き継いだレーガン大統領政権で本格的に始まったアメリカの軍事拡張政策と、同盟国へのテコ入れ、ソ連の攻勢の強まっていた第三世界での巻き返し政策は、1983年ごろから具体的に実現していった。日本の青森・三沢基地へのF-16戦闘機配備計画が発表され、それに対する協議が始まったのも1983年であり、F-15戦闘機、F-16戦闘機、F/A-18戦闘機、スプル-アンス級駆逐艦、オリヴァー・ハザード・ペリー級フリゲート艦、タイコンデロガ級巡洋艦などポスト・ベトナム戦争兵器の第一線配備が一段落ついたのもこの年である。そして、カリブ海地方の小国で、キューバ正規軍が駐留し、親ソ連の左翼が政権を担うグレナダにアメリカ軍が侵攻、政権を打倒し、同様にニカラグアの右派・反革命ゲリラ・コントラへの支援を始め、グアテマラ、エル・サルバドルなどの中米・カリブ海諸国地方での右派組織、反革命組織にたいする支援など介入が具体的に動き始めたのもこの年である。

 また1983年3月25日には東西冷戦、ソ連崩壊につながる大きな要因となった出来事があった。レーガン米大統領によって発表された、宇宙空間配備および地上配備のレーザー兵器、エレクトロ・マグネティック・レイル・ガン、その他の各種弾道ミサイル防衛兵器で構成される「戦略防衛」がそれで、のちにSDI(戦略防衛構想)へと発展し、弾道ミサイルにおいて数量的にアメリカを上回り、プレッシャーをかけ続けてきたソ連にとって、それを無効化する可能性のあるSDIは、SDIと同様の弾道ミサイル防衛に関する技術的基盤をもたないソ連にとって大きな脅威となった。

 一方で、アメリカとソ連のあいだにおいてすすめられていたINF(中距離核兵器全廃交渉)、START(戦略兵器削減交渉)、MBFR(中部欧州相互へ威力削減交渉)などの軍縮交渉が相次いで中断し、米ソのあいだにわずかに残っていたデタントの傾向が完全に途絶え、冷戦激化の傾向がはっきりとあらわれ、第三次世界大戦の危機が懸念される事態となった。特にヨーロッパにおいては、ソ連のSS-20中距離核ミサイルと、それに対抗するためにNATO各国に配備が決定したアメリカ陸軍の中距離核戦力であるパ-シングⅡ中距離ミサイル、地上発射巡航ミサイル(GLCM)にたいして、核戦争の危機が強まったとの認識から、原子爆弾の投下された広島にかけて、ヨーロッパの広島化を懸念する造語「ユ-ロシマ」をかかげて、ヨーロッパ各地で反核運動や軍縮運動が起こり、特に東側陣営との最前線に位置する西ドイツにおいて反核運動が加熱し、西ドイツの議会においてはその反核と環境重視を最重要政策にかかげる緑の党が躍進する結果となった。

  日本においては、アメリカとのより一層の緊密化、具体的には防衛力強化による防衛貢献、アメリカ軍と自衛隊による共同演習の増加、1000カイリ・シーレーン防衛、武器輸出三原則の例外としての対米供与の解禁が1980年代に入ってから着々と進行し、1983年には防衛力整備計画である56中期業務見積もりの推進によって、日本の防衛力も西側先進国として一流のレベルに達するものとなり、そうした一連の日本の防衛力整備に関する行動は、アメリカの軍事拡張政策、第三世界での巻き返し政策とともに日本におけるマス・メディアにおいても各種の評価がなされた。

 

第2項 読売新聞

 

  1984年(昭和59年)1月1日の読売新聞の社説「平和・自由・人権への現代的課題-日本の役割と新聞の使命を考える」(注1)では、この当時の国際情勢の分析とそれへの提言とともに、日本のマス・メディア、特に新聞が今までどう伝えて来たか、どうあるべきかについての記述がなされている。読売新聞のあるべき姿として、1946年9月1日に読売新聞社社長馬場恒吾により執筆された「読売信条」と題される宣言を記述している。それは、

「われらは左右両翼の独裁思想に対して敢然として戦う。それは民主主義の敵であるからだ。われらはしいたげられるものを助け個人の自由と権利を守るために戦う。それを勝利の日まで断じてやめない。」

とのもので、この宣言を継承するとしている。この宣言に基づき議論を進めており、

「左右両翼の独裁思想に、日本の政治体制が支配されるおそれは、もはやあり得ない。とりわけ、右翼独裁、つまりファシズムが権力を握る経済、社会的基盤はどこにも存在しない。」と前置きしたうえで、

「とはいえ、両翼の偏向思想が、マスコミを冒す危険がないとはいえない。特に警戒すべきは、左翼偏向である。今日の左翼偏向派は、決して自らを『左翼』と称することはしない。」と、マスコミにおける偏向の危険を指摘、特に今日の左翼偏向を懸念している。

具体的な左翼偏向として、

「平和とか軍縮とか反核といった大衆の耳に快くひびく言葉の中に、それを隠そうとする。」

と、平和、軍縮、反核といった言葉を用いることによって、実質的には日本の防衛力増強や西側諸国と、その中心的な国であるアメリカの軍備増強に反対するマスコミの真意に迫っている。「いたずらに『反核』を合唱しても、平和は確保されない。」

との言葉を使い、第二次大戦後に核の抑止力のある先進工業国のあいだで軍事衝突がなかったことを例に、“反核“運動の効果を疑問視する。さらに

「反核運動の叫びは、ニュー・ヨーク市の空にとどろいても、モスクワ市の街角では沈黙を強いられている。」

との記述で、自由な主張の許される西側民主主義国家間と、それの許されない東側陣営の立場を指摘、“反核“運動の不平等な主張をいさめている。

そして、1970年代のデタント機にアメリカが2,5正面戦略から1,5正面戦略に縮小し、徴兵制の廃止や世界に派遣している軍部隊の撤退など、軍縮を実行したのに対し、ソ連は アンゴラ、モザンビーク、エチオピア、南イエメンと軍事支配地域を広め、アフガニスタンにも侵攻し、戦術核や通常兵器の拡張を続けていることを、

「こうしたソ連のあからさまな対日威嚇にはあえて目をつぶって、米国は軍拡の元凶とする論法を、公平だということができようか。」

とアメリカの軍事拡張政策には声高に反対を唱える勢力を批判している。

「『抑止と均衡』の理論や、『ソ連の脅威』を否定する人々の多くが、反米親ソの左翼戦略を推進している。そうした進歩派の反核運動は、有効な核軍縮に寄与せず、ソ連の西側分裂工作に奉仕する結果を生むにすぎない。」

と記述し、上記の主張をする勢力が実際には反米親ソの左翼戦略を主張し、結局はソ連の術中にはまるのみということを見事に喝破している。さらに、上記のような勢力が主張する政策を実行することは、日本の総輸出額の約4割を占めるアメリカと、北大西洋条約機構(NATO)諸国と日本の関係に亀裂を与え、それが日本の経済にも深い傷を残し、日本国民に悪影響を及ぼすと指摘する。

「こうした現実を無視した安全保障政策の選択は、幻想的であり、無責任である。」

と、経済面からも批判している。

そして最後に、読売新聞の方針として

「平和と自由と人権を守り、世界の尊敬と信頼を得る国となるためには、日本は、そして大部数を発行する新聞は、どっちつかずのあいまいな国際的無責任、進歩を偽装した保守的、観念的中立主義に耽溺することは許されないと考える。」

というような主張をしている。日本を代表する大新聞としての意思を表明し、これまでの中庸を主張する曖昧な主張からの決別の宣言と読みとっていいだろう。そして観念主義にとらわれる日本の大新聞への挑戦的な字句をならべ、違いを主張している。

 この読売新聞の社説は、これまでの無難な中立的主張を続けてきた読売新聞と違い、主張が明確である。あえてこれまでとの違いを宣言していると言えるだろう。特に、左翼偏向マスコミの存在を指摘し、その正体を反米親ソの左翼戦略と喝破し、その悪弊を具体例を挙げて糾弾しているのは特筆に値する。また、第二次大戦での心理的影響から「平和」、「反核」、「軍縮」といった理想を主張することに異を唱えることができなかった日本の新聞では、数少なくこうしたことの偽善性、独善性を指摘している。サンケイ新聞では行われてきたことではあるが、日本最大の発行部数を誇る読売新聞がこうした主張をすることは、日本のマス・メディアにとって影響は大きい。読売新聞は、この1984年1月1日の社説から、この社説の方針に従った、明確な主張の社説、プロジェクトを継続しており、その意味でも画期的であった。また、この社説により、今日の新聞界における体系、保守の読売新聞、産経(サンケイ)新聞と、左派の朝日新聞、毎日新聞という構図ができあがったと言える。読売新聞が、今回いままであげたような、左翼批判、反米親ソの批判、「反核、平和、軍縮」の運動の不平等性による利敵行為を記述する結果となった背景には、1983年の東西間の冷戦激化があると思われる。この事実は、西側の民主主義、自由主義を守るため、それを危機に陥れかねない左翼勢力の利敵行為と言える行動の批判へと駆り立てたのであろう。そして、そのような左翼勢力の行為は読売新聞を強固な、確固たる意志へとすすめ、後に読売新聞がさらに大きな影響力をもつようになる基盤を作り上げたのであった。

 

注1 読売新聞朝刊昭和59年1月1日

 

第3項 朝日新聞

 

 1984年1月1日の朝日新聞の社説、「現実をふまえた理想主義の道」(注1)で、次のように記している。

「政府・与党には外圧順応型現実主義者が多い。これに対して、野党側には硬直した教条主義的色彩が顕著だ。いずれも、国際問題にナイーブであることに主因である。」

と指摘している。一応事実を羅列しているが、なぜ日本は国際問題にナイーブであるかとの記述がない。さらに、日本の現実主義者は

「長いものに巻かれろ」

派であるとして、具体的には、体制派の多くがアメリカと一致して一時期、“中国封じ込め”を最も現実的な選択と主張していたこと、沖縄返還の際に核抜き本土なみ返還をもとめることを断念していた人間が多くいたこと、防衛力増加も、アメリカの圧力を受けてずるずる後退する現実主義の産物である、というような記述で批判している。一方で、理想主義者も「あまりにも内弁慶的でありすぎた。」

として、

「ひたすら『平和憲法の崇高な精神』を力説するだけ、といったタイプが目立つ。」

と指摘する。

「こういう鎖国的平和主義では、現実に”脅威”と直面、格闘している国に対しては、なんの説得力も持ち得ない。」

として、現状認識に置いても当を得たものとなっており、「平和憲法信奉者」の平和主義を非難している点でも、これまでこのような主張を繰り返してきた朝日新聞の論説と違ったものとなっている。そして日本にとって必要なものとして、

「米国をはじめとする友好国との協調を保ちつつも、平和国家としてのすじを通す『和シテ同セズ』といった行き方であろう。」

との、現状追認型の現実的な政策を提唱しており、これも従来の朝日新聞との主張と異なったものとなっている。

しかし、こうした政策は失敗するおそれがあるとして、その理由に先ほども指摘されていた

「『国際協力、イコール軍事力強化』といった思いこみの強い現実主義者、あるいは、資源小国、通商大国にとって他国での評判の悪さがいかに致命傷かに気付かぬ唯我独尊的観念論者が、いまだ多く見られるからだ。」

と指摘、軍備増強や「平和憲法信奉者」をともに批判している。また、きびしい国際情勢のもと、日本独自の外交路線を提唱し、そのきびしい情勢だからこそ、国連憲章や平和憲法の理想主義が貴重であるという従来の朝日新聞が主張するものを提案し、先ほど述べていたこととの矛盾を露呈している。

 1984年1月1日の朝日新聞社説は、従来の朝日新聞の主張、すなわち「平和憲法」を信奉し、空想的な理想主義を追求し、防衛力増強と日本とアメリカの同盟国としての連携強化などに強硬に反対する、といったものと違い、空想的な平和主義者を、アメリカとの協調をめざし防衛力増強を目指す現実主義者とともに批判している。さらに外交政策では、アメリカとの協調を提案するなど、以前とは違うものとなっている。こうした主張の変更は、1983年に東西のあいだの冷戦が激化したことがあげられる。読売新聞と同様、激変する国際情勢の前に、現実的な対応を迫られた結果と言えよう。しかし、最後のところで、結局は従来の朝日新聞の主張に戻ってしまったのには残念である。朝日新聞としては、従来の主張との整合性を取る必要が会ったのであろう。

 

注1 朝日新聞朝刊昭和59年1月1日

 

第4項 毎日新聞

 

  1984年(昭和59年)1月5日の毎日新聞の社説(注1)において、INF(中距離核兵器全廃交渉)、START(戦略兵器削減交渉)、MBFR(中部欧州相互均衡兵力削減交渉)などの軍縮交渉が相次いで中断したことについて、米ソのパイプがとぎれた状況をと懸念し、これら情勢のもとにおいて、同年1月3日の社説(注75)では、日本の軍拡傾向を批判する内容のものを発表している。特に、与党である自民党が先の総選挙で議席を大幅に減らしたことを

「軍備拡大路線への批判」、

「平和主義志向の国民世論から離れる」

というふうに判断している。一方で、「私たちが戦後一貫してとってきた平和外交が、海外では理解されない。」として、戦後の日本の「平和外交」の評価に対しても疑問を投げかけている。その理由として、

「国際政治のなかで紛争にまきこまれるのを極力、さけようとする消極的、かつ利己的外交と受け取られている。」

と冷静に分析している。そして、日本のあるべき国際貢献として、

「軍備でなくODA、経済協力など非軍事面での国際貢献」

を提案している。

  この毎日新聞の社説では、冷戦激化という状況を認識していながらも、それに対してどう対応するかということにたいして、軍事力というオプションは捨てている。一方で、軍事を否定した戦後に本の安全保障戦略を「平和外交」と定義し、これが時代に合わない、世界有数の経済大国となった日本の、国際社会に対しての貢献・責任となりえない事実も認識している。その対応策としては、経済協力やODAなどの非軍事を主張し、軍事を否定している。冷戦激化という状況は認識していながら、それへの対応、軍事強化による日本防衛には否定的で、従来の毎日新聞の主張と変化はない。

 

注1 毎日新聞朝刊昭和59年1月5日

 

第5項 サンケイ新聞

 

 1984年(昭和59年)1月1日のサンケイ新聞の論説委員提言(注1)では、日本に国家論がない理由に、戦後日本人には第二次大戦での敗戦のトラウマ(後遺症)があると指摘している。戦後の日本人は戦争を憎み、敗戦をもたらした国家主義、軍国主義を憎悪する事によって、国家、国民、愛国心といったものがタブーとなり、国家論が成立する土壌がないと指摘している。そして、憲法前文にある「平和を愛する諸国民・・・」に基づく平和国家論は、

「現実の前に破綻した。」

と主張している。

平和国家論に変わる日本の政策としてサンケイ新聞は、

「国際的に通用する平和国家論を」

と新たなる平和国家論を提案し、

「大国化した日本は、安全保障の面でも応分の責任分担を果たすべき」、

と、日本の防衛面での国際貢献を提案している。そして、この日本の安全保障面での国際貢献において、西側の一員であることを表明した中曽根首相を評価している。また、安全保障面での国際貢献について、

「外交の国内コンセンサスをとりつけ、同盟国の責任の青写真をしめすべき」

と、国内世論のとりまとめの重要性を説いている。

同年1月6日の社説(注2)では、日本の国際貢献にたいしての具体的な主張がなされている。前提となる情勢判断としては、ソ連の軍拡、朝鮮半島の不安定をあげ、あらためて

「西側の一員としての防衛上の責務を果たすべき」

と、防衛面での貢献を強調している。防衛における日本の消極姿勢に対しては、圧力、要請がないと防衛力整備を進めようとない日本政府に対して、

「防衛力整備の意志を明確に」

と、確固たる意志での防衛強化を主張している。そして具体的な防衛力強化の方策の提案には、国際水準では低すぎるとして防衛費の対GNP費1%枠の撤廃を提案している。また核兵器搭載艦船および航空機の日本領海・領空内への寄港、通過について、非核三原則の「もちこみ」に含まないように、国際慣行に従った“非核三原則“に見直すよう主張している。特に防衛費の対GNP費1%枠については、アメリカ、西ヨーロッパの平均24%や、ソ連の12%に比べ、人件費が防衛費の内の50%を占める日本では、全く根拠のないものと断言している。1983年の自衛隊記念日に、質の高い防衛力整備が必要だが、防衛費は対GNP費1%枠内におさめると強調した中曽根首相を批判している。 

 サンケイ新聞は日本の安全保障を、原点にある国家論から論じ、憲法前文にある「平和を愛する諸国民・・・」を前提とした平和国家論や、軍事的な国際貢献(防衛力増強や1000カイリ・シーレーン防衛など)にたいし否定的な態度をとる者を批判する立場に立っている。日本は安全保障面において国際貢献する、すなわち日本が防衛力を整備することを主張している。そして、そのための具体的行動を提案するなど、安全保障においての主張が明確である。特に、非核三原則を見直すように提言している点は、他のマス・メディアには見られないものである。

 

注1 サンケイ新聞朝刊昭和59年1月1日

注2 サンケイ新聞朝刊昭和59年1月6日

 

第6項 総括

 

 1983年の冷戦激化は、各紙に大きな衝撃を与えたようである。目の前に突きつけられた事実を前に、現実的行動の主張を余儀なくされたようである。そして、それは日本の保守化といわれる現象をすすめ、防衛に対する否定的な感情をおさえる役目を果たしたようだ。特に、読売新聞は、自戒の意味も含めて、マス・メディアにおける左翼偏向を指摘し、戦後日本のマス・メディアに波紋を投げかけている。また、朝日新聞においても、従来の対米防衛協力の批判から、協力やむなしとの立場にスタンスを移しているのは、冷戦激化の深刻さを象徴しているかのようである。サンケイ新聞も従来の立場である日本の防衛力増強という主張を、冷戦激化を指摘した上で、さらに踏み込んで続けている。一方で、毎日新聞だけは従来の主張である、平和外交を主張し、日本の軍事的役割に懸念を示している。冷戦激化を認識しているうえでの主張であるので、この主張の意味するものは大きい。

 

 

 

 

 

 第8節 防衛に対する主張の変遷

 

 日本の主要なマス・メディアにおいて、79年危機以降の日本の具体的な防衛政策にどのような主張、提言をしてきたのだろうか。

 

第1項       読売新聞

 

  読売新聞の1980年の時点での主張、提言は総合安全保障の考えに基づいて、そのなかでの防衛努力を提案している。1980年(昭和55年)3月5日の社説(1)で、防衛費の対GNP比1%枠問題にからめて、

「しかし、憲法上の制約や、軍事大国にはならない、というわが国の立場も、十分に理解してもらいたい。」

と防衛政策における前提条件を提示した上で、

「非軍事でのわが国の役割を話し合うべき」

と提案している。その非軍事の具体的方策としては、

「国際経済協力、技術開発、文化交流」

などを予算もふくめて充実させることで総合安全保障を実現させるよう提案している。防衛に関しては、同年8月6日の社説において、日本の防衛力は、

「世界で7,8番目に位置している。上位5カ国が核保有国であること、わが国の憲法上の制約を考えれば、かなりの努力という見方ができるのではないか。」

として、憲法上の制約があると前提しながら日本の防衛力を一流と認識している。さらに、「陸、海、空三自衛隊のどこを、どのように改善していくか、限られた財源のなかで優先順位を決めて、整備していくことが必要になる。」

と、自衛隊内の戦力再編を提案し、具体的には、

「いま日米間で問題になっているのは海上輸送路の安全である。従って、海、空に力点を置くことになる」

と、日米間の懸案であるシー・レーン防衛への配慮をみせている。しかし、一方で、

「ただ、防衛費を増やせばよい、というものではないだろう。合理化の努力も忘れてはならない。陸上自衛隊は、充足率が86%だが、予備自衛官の活用も合理化のひとつの手段ではないか。陸3万9千、海600という予備自衛官はいかにも少ない感じがする。」

と記述し、防衛費増加には否定的ながらも、その代案として予備自衛官の活用、増加をあげている。しかし、日本において、予備自衛官の活用、増加がなされない、政治的、社会的背景が述べられていないことは残念である。(注2)同様なことは、同年7月30日の社説「防衛費増額が抱える問題」においても、

「陸上部隊を偏重した体制の改革に、これまでほとんど手がつけられていない」、

「これまでの陸上至上主義の慣行も、思い切って改めていくべきである。」

と、人件費比率の高い防衛費の中で、特に人員が多い陸上自衛隊の改革を提言している。(注3)

  その後も読売新聞は総合安全保障の推進を提言し続けている。1981年(昭和56年)7月23日の社説(注4)においては、

「国情にあった防衛力の強化を進めると同時に、非軍事的貢献、つまり開発途上国への多面的な開発援助に、眼で見てわかるような実績をのこさなければならない。」

と、(専守防衛のなかでの)防衛力の整備と、経済協力の双方を実施していくよう提言している。その総合安全保障のなかで、軍事と非軍事をどのようなバランスにおいて進めていくのかという点であるが、これは1980年(昭和55年)7月29日の社説「外交が弱い外務省の安保見解」(注5)において示されている。ここでは、ソ連・東側陣営の軍拡による、国際情勢の緊張、不安定化にたいして、

「その国に応じた軍事的抑止力は必要である。」

としながらも、

「しかし、軍事力だけで危機が回避されるものではない。わが国の場合、憲法上の制約や、東南アジア各国への影響を考えると、防衛力強化にはおのずから限度がある。応分の強化は仕方が内にしても、一定の歯止めが必要だ。」

と、一定以上の防衛力強化には反対している。対案として

「むしろ、わが国には、平和国家としての独自な外交や、経済力を使った経済外交が望まれる」

と、どちらかというと非軍事面での外交を推進しているように見受けられる。

 

注1 読売新聞朝刊昭和55年3月5日

注2 読売新聞朝刊昭和55年8月6日

注3 読売新聞朝刊昭和55年7月30日

注4 読売新聞朝刊昭和56年7月23日

注5 読売新聞朝刊昭和55年7月29日

 

第2項       朝日新聞

 

  朝日新聞の防衛に対する主張は、日本の防衛力強化には否定的なもので、アメリカとの防衛協力に対しても反対を主張し続けている。1981年(昭和56年)4月29日の社説「国防会議は何を了承したのか」(注1)では、次年度予算の概算要求枠の伸び率がゼロに決定したのに対して、防衛費だけが例外になったことに対し、

「防衛予算だけを昨年同様に突出させるのはすじが通らぬ、というのが庶民の感情だろう」と、批判している。そして、行政改革における行政の簡素化の追求において、

「自衛隊も対象外でないはずである。海と空の増強に傾くとすれば、陸は削減する用意はあるのか。また、自衛力の増強を急ぐのというのならば、当然まず自衛隊の現状見直しが行わなければならない。各自衛隊にむだはないのか、総合的な機能はどうなのか、なども検討されるべきである。」

として、防衛の再検討を要請しているのはまっとうな提案であろう。

  1981年7月3日の社説「米の防衛増強に屈するな」(注2)では、中東、アジア、ヨーロッパでの同時有事対応の三正面対応戦略をかかげるアメリカの“タカ派“を批判しながら、その「タカ派」政策のアメリカの日本に対する防衛力増強要求に反対している。その日本の防衛力増強の具体的な政策となる1000カイリ・シーレーン防衛に対しても、同年7月16日の社説「洋上1000カイリへ広がる防衛」(注3)において、大量の戦闘機をはじめとする防衛力強化、ひいては空母の保有につながるとして、

「際限なき武装になりかねぬ」

と反対し、また、その1000カイリにまで広がった洋上防衛を、さらなる防衛範囲の拡大へとつながるきっかけとなると解釈している。そうした一連の行動を

「それは近隣諸国の目に映る日本像をいっぺんさせることになるだろう。平和国家日本をくずすことだからである。」

と記述している。

また、1982年(昭和57年)1月10日の社説「日米防衛協力に厳しい限度を」(注4)では、ソ連の軍事的脅威増大による極東の安全保障情勢の悪化を主張するアメリカに反対を唱えなかった日本政府を批判し、アメリカの要請するアメリカ軍艦戦への海上自衛隊の海上護衛などが、個別的自衛権を超えて集団的自衛権になると批判、

「米ソ間のパワーポリティクスに巻き込まれるだけだ。」

として、反対している。

  この時期の朝日新聞は、ソ連の軍事的拡張主義による冷戦、国際情勢の悪化という考えに異を唱えている。それによって、前述したような情勢認識が基になる日本の防衛力増強に、防衛費だけの対前年度比予算増加と言う理由で反対、また日本の防衛力増強につながり、集団的自衛権行使につながる可能性が高まってくる日米の防衛協力にも反対する結果となっている。しかし、この場合、東西冷戦やアメリカの極東兵力の中東への移転計画「スウィング戦略」抜きに考えても、貿易立国・日本で世界の経済国家である以上、シー・レーン防衛は当然であり、ましてや1000カイリ・シーレーン防衛など十分に専守防衛の範囲内で、西側陣営のアジアの要として当然の行動であろう。それを批判していると言うことは、日本の安全、経済の地位をも危険にさらすことである。

 

注1 朝日新聞朝刊昭和56年4月29日

注2 朝日新聞朝刊昭和56年7月3日

注3 朝日新聞朝刊昭和56年7月16日

注4 朝日新聞朝刊昭和57年1月10日

 

第3項       毎日新聞

 

 毎日新聞はこの時期、連続して防衛費増加に反対する社説を掲載している。1981年(昭和56年)5月21日の社説「防衛費を特別扱いするな」(注1)では、

「行財政改革に例外的な”聖域”を設けるべきでない。」、

「右傾化が懸念されるいま”軍事優先”のムードを助長してはならない」、

「日米『同盟』関係から軍事色を少しでも薄めるべく努力することが望ましい」

と、大きく分けて3つの理由で防衛費増加に反対している。特に、防衛費を始め、安全保障関係費の増加によって、軍事優先、軍事大国化の懸念と、文教、福祉などの予算が減額されることに懸念を表明している。同年9月5日の社説「防衛費を厳しく圧縮せよ-57年度予算編成に注文する-」(注2)では、

「量より質」、

「平和戦略」

を求め、アメリカの外圧による防衛費増加に反対し、

「平和な経済大国である日本が、福祉や文教を犠牲にしてまで防衛力強化を急ぎ、世界の軍事化、右傾化に”寄与”する必要がどこにあろうか。」

と、厳しく非難の記述を続けている。1982年(昭和57年)7月10日の社説「防衛費突出に見る危険な道」(注3)と題して、

「”軍事優先”の予算編成は、多くの国民の合意を得るにはほど遠く、われわれとしては賛成しがたいことを強調せざるを得ない。」

と、強く非難の論調で、他の予算が減額されるなか、防衛費が前年度の対前年度比7,5%増加を下回る、7,3%増加であったにもかかわらず、この防衛費増加が防衛力整備計画である56中期業務見積もりや防衛大綱以降のより強力な防衛力強化への中核となる備えになるとして、懸念している。さらに、これらの動きが、防衛費の対GNP費1%枠を突破するのが確実となるなか、

「軍拡路線を志向する巨額の防衛費を神聖不可侵のもとする考え方事態がそもそもおかしくないか。56中業の見直しと防衛費の削減こそが先決だろうと。」

防衛秘蔵か反対のみならず、防衛費の削減と、防衛計画の縮小を求めている。

さらに、

「軍事力重視の政策は、平和憲法の精神にもとるだけでなく、核の時代にあっては軍事力によって安全を図ろうとする発想自体、むしろ危険でさえある。」

と軍事力による国家の防衛、安全の確保にも疑義を呈している。同年12月17日の社説「防衛費削減こそ優先課題に-首相はなぜ軍拡に熱心なのか-」では、日本が

「軍拡路線に積極的な姿勢を打ち出している。」

として、

「平和憲法を抱く日本にとって軍拡でなく軍縮こそ追求すべき道であることを・・・主張してきたが、・・・防衛費の削減を優先課題にすべきであることを強調したい。」

と主張、特に、シー・レーン防衛を非難、その理由として、米ソ対決の一環として担わされる日本のシー・レーン防衛は、歯止めのないものにつながると非難している。また、

「アジア諸国の間に日本の軍事大国化への懸念が広がりつつあるとき、それに背を向けるかのように、軍備増強に走ることにはおおきな疑問をもつ。」

とアジア諸国との関係を憂慮した記事となっている。さらに、56中期業務みつもりで計上されている多額の正面装備予算が経済効果をもたらすとの意見に、

「経済体質を弱めるだけである。」

との理由で、批判的である。ソ連の軍備拡張主義にはじまり、西側諸国も対抗して軍拡傾向にあるなか、日本だけが軍縮をして意味があるのか、逆に、極東に空白域を作りだし、軍事的緊張を生むのではないか、との疑念は見受けられない。また、防衛生産における経済効果と損失についてもその根拠が明示されていない。1983年(昭和58年)7月7日の社説「防衛予算突出は疑問」においても56中業の中止と防衛費の対GNP費1%遵守を訴え、特にF-15戦闘機やP-3C対潜哨戒機、護衛艦などの正面装備の調達と、その後年度負担を問題にしている。(注4)

 毎日新聞の防衛費に関する社説では、他の予算が抑えられているのに対し、防衛費だけが増加するのは公平でないこと、防衛費増加によって他の予算が減額されるのは好ましくないこと、防衛秘蔵かは右傾化、軍事大国化を押し進め、平和憲法に基づく平和国家の精神に反し、近隣諸国の反発も予想されること、と言った理由が主で、防衛費増加に反対している。しかし、この時期の国際情勢、ソ連の大幅な軍拡とその行動による世界的な緊張状態と言った視野が抜け落ちていり、安易な理想主義である平和国家の幻想にとらわれるのは問題である。

 毎日新聞の防衛政策に関する提言に置いては、1980年(昭和55年)8月6日の社説(注5)では、防衛白書について、

「白書は、世界の主要国に比べて質・量ともにおとり、作戦遂行能力もない”弱い自衛隊”を全面にさらけだすと言う手法で・・・性急に予算獲得運動に乗り出しているように思えてならない。」

と、防衛費増加、防衛力増強にむけた動きを牽制している。さらに、

「安全保障の面では、わが国が貢献すべき道すじ(アメリカや西欧諸国と)はおのずから異なる」

と、アメリカを中心とした西側陣営の防衛における協調体制に対して、日本は同調しないよう提言している。

ソ連・東側陣営の軍拡傾向に対しては、1981年(昭和56年)6月27日の社説(注6)で、

「西側の軍事力増強では解決できない。」

として、

「『ソ連の脅威』認識一致の変更を」主張、日本は「防衛力増強が、(防衛費の対GNP費)1%枠、(防衛)大綱を逸脱」

するとして、批判している。1981年(昭和56年)8月13日の社説、「不必要な『防衛大綱』見直し」(注7)で、デタント傾向時に作成された防衛大綱が、ソ連の極東も含めた世界的な軍事拡張や、アジア・太平洋アメリカ軍を、中東・インド洋での有事の際に移転させる”スウィング戦略”のもと、軍事的空白となる日本の防衛に対応できないため改正必要があるとの日米関係者の声に、毎日新聞は

「問題があるばかりか、危険であるといわざるを得ない。東西の軍事力が対峙(たいじ)している欧州方面と、直接の軍事的対立関係を持たない日本とは、対応の仕方が異なってくるのは当然だからである。」

として反対している。大綱の前提としている”脱脅威論”を基に、ソ連の軍拡傾向をすぐに脅威とは判断せず、東アジアの安定は総簡単に崩れることはないとの認識で、なし崩し的にシー・レーン防衛論など防衛力強化すべきでないと、と評している。同年8月16日の社説「防衛白書に見る危険な逸脱-ここまできた日本の再軍備-」(注8)では、防衛白書が「侵略はあり得る」、「国を守る気概」との表記や、「憲法体制」と言わず「国家体制」という用語を用いたことにたいして、毎日新聞は

「日本が再び危険な道を歩いているのではないか、との強い不安をいだかせるものである。」、

「民主主義の基本である思想、良心の自由を侵す恐れが多分にある。白書の限界を超えた危険な逸脱といわざるをえない。」

と厳しく非難している。この毎日新聞の主張であるが、戦前への忌避の感情があまりにも強すぎ、民主主義体制の崩壊の危険まで懸念している。こうした表記は1982年(昭和57年)9月15日の社説「防衛白書に赤信号を見る」(注9)にも見られる。やはり、

「国家体制」という言葉を用いた防衛白書に、前年同様の懸念を表明している。さらにソ連の脅威を理由に56中期業務計画の早期達成を進めようとする防衛庁の姿勢や、専守防衛や憲法9条に「懐疑的」と評される防衛白書、首相の防衛費の対GNP費1%枠の見直し発言に、

「国民の多数派が、・・・不安を強くしていることは間違いない。」、

「いつか無謀な道に踏み込むことを私たちは恐れる。」

といった、不安を煽る記述で主張している。

こうした毎日新聞の主張の基本となっていると思われる認識として、1981年5月3日の社説(注10)がある。

「戦争を永久放棄する事を明記した憲法9条は、内外からの試験が厳しいからこそ、従来以上に、大切に、わが国最高の指針として守っていかなければならない。」

と憲法9条の遵守を主張し、

「軍事力が平和と安全の保障にならないことをかみしめる必要がある。」

として、軍事力による抑止、安定にたいして、懐疑的な姿勢を示している。

「日本のような経済力が強く、いつでも軍拡が可能な”潜在的軍事大国”が軍拡に踏み出したら、どうなるだろうか。ソ連を刺激し、その軍備を拡大させ、さらにそれが米国の軍拡にも拍車をかけ競争はとめどなくひろがって一触即発の危険が広がるだろう。」

と、世界的な軍拡の原因が日本にあるかのような記述である。

「米・ソ・中のような大国では『力の均衡』、『力の政治』が一種の常識となっている。世の中が日々きな臭くなっていく今こそ、こうした『常識』の謝りを進んでただすべきではないか。」

と、「力の均衡」によって成り立っている現実の国際情勢を無視した主張をしている。このような考えが背景となって、日本の防衛力増強に反対する主張を続け、憲法9条に抵触すると思われると、それを持ち出す構図となっている。

 アメリカとの防衛協力については、1981年(昭和56年)7月14日の社説「米との軍事技術協力は危険」(注11)との題で、

「応ずべきでないと考える。」

と主張している。その理由としては、
「日本経済の軍事化」、

「憲法の『非戦・平和主義』の精神」

をあげている。これらのうち前者は、経済の低効率化、世界経済の軍事化につながるとして反対する理由としている。後者の関しても前者と関連させ経済の軍事化による悪影響を主張している。同様な内容で、1983年(昭和58年)11月9日の社説「疑問多い武器技術供与」(注12)では、

「武器輸出三原則に違反している」、

「アメリカ経由で第三国に輸出され世界の紛争を悪化させる」、

「密室で協議され国民に知らされない」

といった理由で反対している。この視点の中には、武器技術供与による開発コストの低減化、日本とアメリカが相互に軍事技術を保有することによって同盟、防衛力が強化されるといったメリットが記述されておらず、バランスに欠いている。また、武器輸出三原則は金科玉条守り通すべきものでもないため、議論を促すような記述が求められる。そして、軍事が経済に与える影響については、1981年(昭和56年)7月31日の社説「レーガン減税と軍拡路線-米国経済の蘇生は成功するか-」(注13)では、減税による税収増加、景気回復をめざすレーガノミクスと、軍拡政策を懐疑的に批判し、1983年(昭和58年)の社説「暮らしに影を落とす米軍拡」でも、景気回復のための財政健全化のために軍縮を要請し、さらに1982年(昭和57年)9月16日の社説「軍拡は経済活力を弱める-白書のもう一つの読み方-」(注14)においては、

「経済の軍事化が進めば、経済の効率性と、生産性を低下させしかも、インフレ体質を強める。」

との記述がある。アメリカの軍事大国的体質が、生産性低下と、インフレを招いていることをあげているが、それだけであり、その根拠は明示されていない。

   毎日新聞の防衛に対する主張・提言は、力による抑止を否定しているため、当然、防衛力増強は認められないことになる。さらに、防衛力増強の前提となるソ連・東側陣営の軍拡という国際情勢に対しても、防衛力を否定し、その他の手段での対処を主張しているが、現実性は全くない。そして、軍拡が経済に与える影響についても根拠が曖昧で、防衛費がGNPの1%以内に抑えられているにほんにおいては、アメリカのような巨大軍産複合体の誕生も非現実的である。また、憲法9条を厳守すべきものとしているため、議論の発展の余地が無く、反対する主張にたいして、「右傾化」、「平和主義に反する」、「かつて歩んだ道」など感情的・教条的反論に始終しており、政策的に発展する議論が望まれる。

同様に非核三原則、武器輸出三原則についてもそうであり、政策として変更できるという前提がまったくない。しかし、防衛についてもっとも取り上げているのは毎日新聞であり、他紙も防衛について、このような姿勢が望まれる。

 

注1 毎日新聞朝刊昭和56年5月21日

注2 毎日新聞朝刊昭和56年9月5日

注3 毎日新聞朝刊昭和57年7月10日

注4 毎日新聞朝刊昭和58年7月7日

注5 毎日新聞朝刊昭和55年8月6日

注6 毎日新聞朝刊昭和56年6月27日

注6 毎日新聞朝刊昭和56年6月27日

注7 毎日新聞朝刊昭和56年8月13日

注8 毎日新聞朝刊昭和56年8月16日

注9 毎日新聞朝刊昭和57年9月15日

注10 毎日新聞朝刊昭和56年5月3日

注11 毎日新聞朝刊昭和56年7月14日

注12 毎日新聞朝刊昭和58年11月9日

注13 毎日新聞朝刊昭和56年7月13日

注14 毎日新聞朝刊昭和57年9月16日

 

第4項       サンケイ新聞

 

 サンケイ新聞では、毎日新聞と同様に防衛、安全保障問題について熱心に取り上げている。そして、防衛、安全保障に関する主張も終始一貫している。1982年(昭和57年)7月9日の社説「1%論 逃げだけの首相答弁」(注1)では、GNPが減少すれば防衛費の対GNP費は増加してしまうという数字だけの防衛費論争に対し、サンケイ新聞は、

「現在、米ソ対立の中で日本が置かれている状況、わが国の防衛体制の欠陥、日米安保体制のパートナーである米国の防衛要請を考えるとき、それほど1%論にこだわる合理的理由はどこにあるのか」

として、

「(1%突破の)このような可能性がありとすれば、堂々とGNP1%論を変更すればいい。」

と提言している。他紙が1%以内厳守を当然のごとく扱っているのに対して、サンケイ新聞のこの主張は異例のものと言えよう。また、1981年(昭和56年)6月には日本の防衛強化を促す主張を展開している。6月14日の社説「米の不満への対応誤るな」(注2)では、日米安保事務レベル協議においてアメリカ側から通告された中東有事時の極東におけるアメリカ軍の戦力の移動にたいし、サンケイ新聞は

「”スウィング戦略”責任分担は当然」

とし、防衛努力は財政上、憲法上の制約の中でしか果たせないとしている日本政府の姿勢を

「同盟国に通用しない論理をいつまでもふりかざしているわけにはいかない。西側陣営のためもっと合理的で適切な防衛分担を避けるわけにはいかない」

と主張し、日本政府に西側陣営の一員としての防衛努力を迫っている。サンケイ新聞はさらに6月22日の社説「防衛落差どう埋めるか 国内事情優先はもう限界」との社説(注3)で、さらなる防衛努力を日本政府に迫っている。このなかでは

「今大事なのは西側の一員としての自覚」

であると指摘し、

「(防衛)大綱に定める防衛力では不十分であり、時間的にも(昭和)62年度達成では遅すぎる。」

と、日本の防衛力の低さを指摘、さらに、

「経済大国日本の防衛費が年間2兆4千億にすぎず、来年度伸び率が7,5%と今年度より低くては米国の不安が高まるのも当然だ。米国の防衛負担がどれほど重く、日本の防衛負担がどれほど少ないかは周知の事実である」

と、アメリカに比べて圧倒的に少ない日本の防衛努力に言及、

「「国内事情だけを強調し、一部世論を国民全体のコンセンサスであるとしていってみても米国の追い込まれた立場を無視しては、相手の対日本不信感を高めるだけである。」と、日本の新聞の中では唯一と言っていいほど至極まっとうなことを言い当てている。

 1983年(昭和58年)2月にもサンケイ新聞は防衛に対しての特集社説(注4)を掲載している。そこでは、

「ソ連の、質、量の両面にわたる軍事力増強に対抗するために、西側の抑止力を高め、東西バランスを回復することにある。」

として、具体的には

「政府は、戦後わが国が西側の一員としての立場を選択し、日米安保条約で同盟関係にある日米関係を改めてはっきりさせるしかない。・・・同盟の強化と集団防衛体制の確立は、今の日本にとって当然のことだ。」

と主張している。また、2月28日の社説(注5)では、

「日本の安全が自衛隊と同じくらい日米安保体制に依存しているのであれば、どう明鏡かはなおさらなことだ。」

と同盟強化を主張、同盟強化の具体的な方法として、対米武器技術供与の実施を提案している。

 サンケイ新聞は一貫して日本の防衛力強化を主張している。そしてその主張の根拠となるものは、ソ連の軍事的な拡張主義である。このことを明確に主張し続けているのはサンケイ新聞だけである。このような信念のごとく認識は、日本の防衛を空洞化させかねない事態、極東配備アメリカ軍の中東派遣、いわゆる”スウィング戦略”に対応する日本の西太平洋・極東での防衛強化や、国民の間で賛否がわかれると予想された防衛費の対GNP比1%枠論議などでサンケイ新聞の主張は不動のものになっている。冷戦激化期サンケイ新聞の主張、日本の防衛力増強、アメリカとの防衛協力の強化は現在にも通じる主張であり、その先見性は貴重である。

 

注1 サンケイ新聞朝刊昭和57年7月9日

注2 サンケイ新聞朝刊昭和56年6月14日

注3 サンケイ新聞朝刊昭和56年6月22日

注4 サンケイ新聞朝刊昭和58年2月特集社説

注5 サンケイ新聞朝刊昭和58年2月28日

 

 

 

 

 第9節 新聞における冷戦激化

 

 冷戦激化は、新聞にも多方面の影響を与えた。ソ連の戦略・戦術両面での軍拡と、第三世界進出を発端とする冷戦激化であったが、この時期の日本は第四次中東戦争をきっかけとした石油危機のため、軍事のみに頼らない総合安全保障が提唱されてきた時期であった。しかし、日本の安全保障議論は、もともと軍事を否定、忌避する傾向にあり、総合安全保障は屋上屋の感があった。また、この冷戦激化の直前までは東西のデタントの傾向にあり、軍事関係に甘い見方が世界的にあった。そうした状況で安全保障を論じる新聞各紙は、やはり認識が甘いと言わざるを得なかった。しかし、冷戦激化を最終的に決定づけたソ連軍のアフガニスタン侵攻は衝撃的であったようで、紙面を割かざる得なかった。だが、そこにも、「冷戦はやめるべき」などの感情的、教条的主張にとどまっていたのが朝日新聞と、毎日新聞である。読売新聞は投書、総合安全保障を主張し、日本の防衛、安全保障に関しての主張、提言はそれほど見られなかった。また、日本の防衛に関しては、防衛力の増強にはそれほど積極的ではない、もしくは消極的であった。しかし、米ソを中心とした東西両陣営の冷戦がさらに激化してくる1980年代の半ば近くになってくると、日本が西側陣営の一員として役割を果たすよう求める主張が見受けられるようになった。サンケイ新聞は、デタントと呼ばれた時期にも、ソ連の軍備拡張にたいして警鐘を鳴らしており、またそれに対応する方策として日本の防衛力増強を主張した。そして、その警鐘が現実化していく冷戦激化期においては日本の防衛力がアメリカやその他西側陣営の国家と比べて、いかに少ないものであるかを主張、世界水準の防衛努力を維持するよう提言した。

 このように冷戦激化期は各社の主張が分かれた。特にサンケイ新聞は他の3社と全く相容れない内容であり、しかも発行部数も他の3社とくらべ圧倒的に少ない。発行部数の多い読売新聞は、その数に比例して読者の多様性を反映してか、特徴のある主張はあまり見られない。一方で、朝日新聞は発行部数が多いにも関わらず、その主張は強く、読売新聞と正反対のものとなっている。

 

  

 

 

 

 

第3章 冷戦激化期における論議

 

  第1節 冷戦激化期におけるマス・メディアの状況

 

 冷戦が激化する1970年代後半からの時代は、新聞がマス・メディアの主流であり続ける一方、他の媒体は数、内容ともに多様化していった。特にテレビの発展はめざましいものがあり、テレビ・ジャーナリズムの影響力は他の媒体を圧倒的に凌駕しつつあったが、この時期は家庭用ビデオの普及率は低く、今現在に至るまでテレビ資料の保存は完全ではないため、その検証は難しい。他方、かつては世論に絶大な影響力を誇った、政治、国際情勢、社会などを扱う比重の高い総合雑誌は売り上げが低下、もしくは悪化していき、その社会、世論に対する影響力はかつての勢いとは全く比べものにならず、もはや「マス・メディア」に値するのかどうか疑わしいものがあるが、オピニオン・リーダーと称される、社会の大勢、および新聞という最大の「マス・メディア」になんらかの影響をあたえる可能性の大きい人たち意見、分析が数多く掲載されており、無視できないものでもある。

 また、この冷戦激化の時代は、過去の安全保障論議のような、世論を沸騰させるほどの重大転機、議論を呼び起こすような事態はなく、論議になりにくかった。また、それには社会の多様化における、政治問題、安全保障問題の関心の低下があげられる。この章では、このような状況で注目される安全保障関連の論議、意見をとりあげる。

 

 第2節 関嘉彦氏と森嶋通夫氏の論議

 

 ことの発端は1978年(昭和53年)9月15日のサンケイ新聞「正論」欄に掲載された、福祉重視の国家を目指すリベラル派の早稲田大学客員教授・関嘉彦氏の論文「『有事』の対応策は当然 歴史の教訓に学べ 無知な平和主義者の平和論」(注1)である。ジョン・F・ケネディ元大統領の単行本「イギリスは何故眠ったか」において、

「第二次世界大戦の緒戦に、イギリスが劣悪な装備のまま、優秀な装備のナチス・ドイツと戦わざるを得なかったかの原因追究の結果、それはイギリス人が第一次大戦と第二次大戦の間に誤った平和思想の虜になって、平和をむさぼっていたからである」

という記述があるが、その記述に関氏も賛成したことにある。関氏は、こうした第二次世界大戦前のイギリスの状況は、現在の日本の状況に似ていると指摘した。さらに再軍備や、有事に対する備えに対し現実に関係なく惰性的に反対し続ける共産党、社会党の社会主義者協会、総評よりも、平和憲法を持った日本を侵略する国があるはずが無い、こちらが平和をもとめれば、相手が侵略などする訳がない、などの希望的観測に立った「善意」の平和主義者の平和論の存在がかえってイギリスのように侵略を招いてしまうと危惧を表明した。

 こうした関氏の論文に対して、ロンドン大学経済学部(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)教授の森嶋通夫氏は1979年(昭和54年)1月1日の北海道新聞で「なにをすべきでないか考える」(注2)と題し「S氏の平和思想批判」を展開した。サンケイ新聞1978年9月15日付「正論」欄におけるS氏(関嘉彦氏のこと)の論評に対して、森嶋氏は

「強烈で、深刻な、ショックを受けた。・・・・・・私はS氏は平和主義者でないにしても、こんな国防主義者とは思わなかった。」

と、関氏にたいする失望を表明している。特に、関氏を「国防主義者」なる言葉で批判的に称していることからも、森嶋氏の軍備に関しての嫌悪感が読みとれる。森嶋氏は

「ヒトラーがスイスを攻撃しなかった理由は軍備ではなく、利用しようと思っていたからである」、

「イギリスが軍備をしていても、ナチス・ドイツの攻撃は避けられず、仮にイギリスが軍備の結果、イギリスが生き延びることができても、軍備主義者がはびこるだけで、ナチスが勝つのとかわりはない」

と述べている。そして、イギリスが第二次世界大戦で勝利できたのは連合国をまとめ上げた政治力であり、けっして軍事力ではないと主張している。

この森嶋氏の関氏の安全保障観にたいする批判は論争へと発展していく。1979年(昭和54年)1月29日の北海道新聞において関氏は、「森嶋教授の安全保障論に答える 最小限の自衛力は必要」(注3)と題して、森嶋教授の疑念に反論している。森嶋氏の

「平和を勝ち取るのは、軍事力ではなく政治力である」

という主張に、関氏は

「軍事的に崩壊していれば、それもできなかったはずである。私の論文の主眼点は一国の安全は軍事力のみでは守れないが、しかし軍事力なしには同じく守れない、その意味で国を守るに最小限の自衛力をもつべきであるということにある。」

と、軍事力の重要性を主張している。

 北海道新聞は関、森嶋の両氏の論争に注目し、1979年(昭和54年)3月に安全保障観にたいする特集を組んでいる。3月9日には「再び安全保障を問う」(注4)と題して、森嶋氏が安全保障に対して持論を展開している。

「ソ連に対し不信感を持つなら、アメリカに対しても、日本は南ベトナムや台湾同様、見殺しにされるかも知れないという不信感を持つべきだ」

と同盟国アメリカが果たして信頼できるのかと疑念を呈し、

「いずれにせよ最悪の事態が起これば、残念ながら日本には、1億玉砕か1億降伏の手しかない。玉砕が無意味というのなら降参ということになるが、降参するなら軍備は0で十分だ。」

と軍備無用論を展開している。軍備に変わる安全保障の方策としては、

「戦争が起こってから活躍する人でなく開戦前に活躍する人を充実するほか無い。」

と軍人ではなく、政治、外交方面を充実するようすすめている。また、

「不幸にして、最悪の事態が起これば、白旗と赤旗を持って、平静にソ連軍をむかえるほかない。・・・・・・・そしてソ連支配下でも、私たちさえしっかりしていれば、日本に適合した社会主義経済を建設することは可能である。アメリカに従属した戦後が、あのとき、徹底抗戦していたよりもずっと幸せであったように、ソ連に従属した新生活も、また核戦争をするよりも、ずっとよいにきまっている。」

と、ソ連支配下に入ることをすすめている。関氏はこのことを翌日の3月10日の北海道新聞で批判している。

北海道新聞上で展開されていた関氏と、森嶋氏の論争は他の地方紙(東京新聞など)にも掲載され、雑誌「正論」1979年4月号の猪木正道氏の「安全保障論争、興すべし」(注5)で論評されるなど、多方面において注目された。この論争は、雑誌「文芸春秋」に舞台を移して展開されることになった。「文芸春秋」1979年7月号で森嶋氏は、「新『新軍備計画論』 -故海軍大将井上成美氏にささぐ- 」(注6)と題して、今までの関氏との安全保障の論争をさらに多方面にわたる視点から述べている。新聞紙面では書き足りない歴史的経緯を詳しく描きながら、また関氏の考えに反論している。ちなみに、「 -故海軍大将井上成美氏にささぐ- 」とは大艦巨砲主義から空母機動艦隊へと転換した井上成美氏の論と、従来の安全保障論から自らの(森嶋氏)の安全保障論へ転換すべき時代が来たとのことを揶揄しているものと思われる。

 森嶋氏は、玉砕よりも降伏を促し、ソ連の庇護のもとでの生活を主張している。結論はソ連の侵略を秩序を持って受け入れれば社会主義国家を平和裏に建設できると言うことであり、軍事力は不要であるということである。日本の「赤旗をもって、白旗を」をここでもすすめている。また、戦争を防ぐのは、戦車などハード・ウェアではなく、外交や技術などのソフト・ウェアであるとの主張が森嶋氏によってなされている。このソフト・ウェアというものは、軍事と並び国家存立のため非常に重要であるのは確かである。しかし、軍事を置き換えるほどの重要性は、この時代においてはもちあわせていなっかたものと思われる。

 一方で関氏は同じく「文芸春秋」1979年7月号で、「非武装で平和は守れない -森嶋通夫氏の批判に答える- 」(注7)と題する反論を掲載している。ここでも、森嶋氏と同様、関氏は新聞紙面の限られた字数では限度のある歴史的経緯を詳しく述べ、また森嶋氏の安全保障案に具体的に反論している。ここで関氏は、

「現在ソ連に占領されて政治的自決権を獲得している国が存在するであろうか。ハンガリーやチェコスロヴァキアは、政治的自決権を回復しようとして無惨にもソ連の戦車で征服されてしまったでは無いか。ソ連の命令通りに動く共産党が政権を執っている国では、形の上では政治的自決権を持っているように見えても、それはワルシャワ条約機構の範囲内においてである。」

と、ソ連に一度降伏すると政治的自決権は絶対に望めないと主張している。

 

注1 サンケイ新聞朝刊「正論」 昭和58年9月15日

注2 北海道新聞朝刊 昭和59年1月1日

注3 北海道新聞朝刊 昭和59年1月29日

注4 北海道新聞朝刊1979年3月9日」

注5 猪木正道「安全保障論争、興すべし」『正論』産経新聞社 1979年4月号

注6 森嶋通夫「新『軍備計画論』-故海軍大将井上成美氏にささぐ-」

   『文芸春秋』文芸春秋 1979年7月号

注7 関嘉彦「非武装で平和は守れない-森嶋通夫氏の批判にこたえる-」

   『文芸春秋』文芸春秋 1979年7月号

 

 第3節 波及議論

 

 この関氏と、森嶋氏の論争を受けて、「文芸春秋」1979年9月号では「降伏か、抵抗か 森嶋通夫VS関嘉彦『大論争-戦争と平和』を読んで 」との題で、関氏と、森嶋氏の論争に対して、「各界諸氏」に意見を求めている。

衛藤審吉氏(東京大学教授)は「知的刺激」として、論争を好意的に捉え、両者の言い分を公平に評価している。

作家の駒田信二氏は森嶋氏に共感している(注1)。しかし、森嶋氏の言う「降伏」には現実味がないと批判的である。

吉川勇一氏(元・ベトナムに平和を、市民連合事務局長)は、海上自衛隊幹部学校長筑土龍男海将の論文『海幹校評論』1971年9月、1973年5月号の「国民個人個人の声明財産を守るのは、一般には防衛力と言うよりもむしろ、警察、消防、医療機関、あるいは有事にはこれらを総合して組織されるであろう民防衛の力」との記述を引用、日本を守る具体的な手段としては森嶋氏と同様「ソフトウェア」が重要であるとし、強権的に走りかねない軍隊は必要ないとしている。守るに値する国なら、人民は自発的に立ち上がると主張している(注2)。

評論家の中島誠氏は、森嶋氏の論が従来の非武装中立論の、攻めてくるはずがないという前提をはずした点と、戦争開始前に活躍する人間を充実すべきとの指摘を、ユニークであると評価する一方、関氏の論を従来からの軍拡論と扱っている。中島氏は、戦争に至らさない国のあり方が重要という点で森嶋氏と認識を一致させている。

防衛大学校教授の佐瀬昌盛氏は森嶋氏の歴史認識、ソ連認識を中心に批判を展開している。また佐瀬氏は森嶋氏の「日本においてはシビリアン・コントロールが成立しにくい」という日本の防衛への不信感に対し、失望の念を表明している。

外交評論家の田久保忠衛氏(注3)は森嶋氏がアメリカの動きを考慮していないことに懸念を表明している。特に、「赤旗と白旗」という行為は、日本のアメリカに対する背信行為と映り、ソ連が自国の衛星国が寝返った場合と同じように、「愛情」から「憎悪」へと心情が変わり、日本に対する攻撃もあり得ると指摘している。特に、日本の戦略的価値は大きく、アメリカはすんなりと日本を手放すわけはないとの認識を表明している。

評論家の原田統吉氏は、「これは、『ほんとうにそれで外国は攻めてこないのか?』という疑問に某されて、近来とんと落ち目の<非武装中立論>の理論的再武装、または、”居直り”だといってもいい。『万一の攻撃』という疑問には『秩序ある脅威に満ちた降伏』と『政治的自治の獲得』という回答を出し、<したがって『非武装』を貫くべきだ>として筋を通そうというのだ。 だが、残念ながらこれもまた、60年代の、バラ色の眩 に隈どられたソ連のイメージが背景にあると言わねばならない。『威厳に満ちた降伏』を許す国か、『武装0』を何と考える国か、というようなことを60年代は知らなかったのである。」(注4)と森嶋氏の論を、旧来の非武装中立論と変わらないと指摘し、ソ連の脅威の認識不足を指摘している。

 そのほか東京大学助教授でソ連史専門家の菊池昌典氏の「いかなる日本を創るべきか」、慶応義塾大学教授の神谷不二氏の「相対化の時代」、作家の林京子氏の「日本国民は、恒久の平和を念願し」と、関氏と森嶋氏の論争に関する意見が続いている。人選のバランスとしては、双方に公平になるように選ばれていると言えるだろう。識者は、関氏の論が常識的であるため、関氏の論への言及は少ないが、非武装中立論とも違う、また「ソフトウェア」の重要性など新たなる提言を続ける森嶋氏に対しては、賛否含めて言及が多くなっている。

 関氏と森嶋氏の論争は、「文芸春秋」1979年10月号でも「補論」として続いている。「新『新軍備計画論』補論 -日本防衛の第一線は、決して軍事的次元ではない。国際協力こそが、日本の持つ戦略上の第一線だからである- 」(注5)では、関氏が前回の論争で、「緊急の場合、アメリカが救援にかけつけてくれるよう・・・・・日本としても自国の経済力に応じた自衛力を持つことである。いかに同盟国とは言え、自ら闘う意志も力もない国を助けるためにアメリカ人が自国の青年の血を流すほど、彼らはおひとよしではない。しかし、そのような用意のある国を見捨てるほど、アメリカは無慈悲な国ではない。」と主張したのに対して森嶋氏は、「右に引用した関氏の言葉は、関氏の信念以外の何の者でもなく、同じ信念を分かちもたない第三者には、そのような信念を吐露しても何の説得力もない」(注5)と言って否定している。

 一方の関氏は、同じく「文芸春秋」1979年10月号において、『「非武装で平和は守れない」補論  森嶋氏がアメリカへの不信を説く割に、ソ連の善意を信用しているのは納得がいかない 』を発表している。(注7) そこでは主に、森嶋氏との見解の相違の点に文章が割かれている。第二章では、第二次大戦時のヨーロッパの戦線における関、森嶋双方の見解の相違が再び繰り返されている。第三章では、日本における文民統制の問題について取り上げている。森嶋氏が日本においては文民統制が根付いていないとの認識を持っているのに対して、関氏は旧軍のようにはならないであろうことを、日本の政治、社会、構造の変化から、そうはならないであろうとの認識を示している。また、日本が、軍人統制国家になりうるとの認識を持っていることに対しても、関氏は、それについて戦前戦後の政治システムの相違、すなわち軍部が議会に拘束されない統帥権の独立を堅持するという「歪曲された」政治・議会制度を持っていたことが原因で、現在にそれを当てはめるのは難しいとの認識である。第四章では、スイスが、ナチス・ドイツに攻められなかった理由についての反駁がとりあげられている。そして、第五章ではアメリカが東アジア、西太平洋地域にプレゼンスを維持し続けていくだろうとの認識のもと、朝鮮戦争時の韓国支援、ヴェトナム介入を例に、日本が外国からの侵略を受けた場合、日本が闘うだけの意志を示せばアメリカは座視しないであろうとの認識を、関氏は示している。また、ハード・ウェアとソフト・ウェアの問題においては、森嶋氏が、「日本はソフト・ウェアを主力とする国防策を採用すべきである」と述べていることに対し、森嶋氏が、自衛隊を将来的に工作隊に改変するという考えを持っていることに対し、関氏は森嶋氏の言う、外交や経済協力や、文化交流などの森嶋氏のいうソフト・ウェアにより、日本の協力者をつくるとともに国防というハード・ウェアとバランスをとって進めていくことが必要だということにたいし、森嶋氏は、関氏の言うバランス案は失敗すると言い、資金の限界故に両者は中和されて、ソフト・ウェア案はほとんど無効になってしまうであろうと、批判している。しかし、諸外国の例を取るべくなくそうする以外には無いのではないか。森嶋氏の案はもっともであるのであるが、現実性に乏しい。この点を関氏ついている。

 この、関氏、森嶋氏の論争は、安全保障論争の少なくなった昭和後半のにほんにおいて、かつての「部分講和」vs「全面講和」、「自衛隊による防衛」vs「非武装中立」の論争を思い起こさせ、防衛、安全保障に関する根本的な論争へと発展した。必要最小限への防衛を呼びかけた関氏は、森嶋氏によって「国防主義者」と呼ばれ、以外な方向への論争展開に広がるとは思ってもいなかっただろう。しかい、一部で広まったこの論争も、広く大衆に広がったのかと言えば、疑問符がつく。すでにこの時期、世論では安全保障、防衛は政争の具ではなくなっていたからである。

 しかし、この関氏と森嶋氏の安全保障論争は、この分野において波風をたてない風潮にあった時期に行動をおこしたという点で意義があっただろう。また、非武装中立や防衛の意義、防衛のあり方を歴史の教訓から考え直し、また、それが専門家にととまらないかたちでの、あらたなる視点での議論となったのは有意義であっただろう。

 

注1 駒田信二「降伏か、抵抗か 森嶋通夫VS関義彦『大論争-戦争と平和』を読んで」

   『文芸春秋』文芸春秋 1979年7月号P95-96

注2 吉川裕一「降伏か、抵抗か 森嶋通夫VS関義彦『大論争-戦争と平和』を読んで」

   『文芸春秋』文芸春秋 1979年7月号P97-99

注3 田久保忠衛「降伏か、抵抗か 森嶋通夫VS関義彦『大論争-戦争と平和』を読んで」

   『文芸春秋』文芸春秋 1979年7月号P105-107

注4 原田統吉「降伏か、抵抗か 森嶋通夫VS関義彦『大論争-戦争と平和』を読んで」

   『文芸春秋』文芸春秋 1979年7月号P111,112

注5 森嶋通夫「新『新軍備計画論』補論-日本防衛第一線は、決して軍事的次元ではない。国際協力こそが、日本の持つ戦略上の第一線だからである-」

  『文芸春秋』文芸春秋 1979年10月号

注6 関嘉彦「『非武装で平和は守れない』補論 森嶋氏がアメリカへの不信感を説く割に、ソ連の善意を信用しているのは納得がいかない」

  『文芸春秋』文芸春秋 1979年10月号

 

 

 

 

 第4節 左派における主張、論議

 

 日本において左派とは、社会主義・共産主義に寛容で、自衛隊による防衛、アメリカ軍の駐留による防衛に批判する人々などが当てはまるだろう。

 この時期、左派および、左派系雑誌、月刊「世界」や週刊「朝日ジャーナル」は凋落傾向にあった。それぞれの雑誌は発行部数が非常に低下し、そのため、以前に比べ社会、世論への影響力は低いものとなったと考えざるを得ない。この時代において、 左派における主な主張は、前章でとりあげた朝日新聞、毎日新聞での政策提言が主流であり、雑誌ジャーナリズムは傍流となっている。そのなかで、社会、世論に影響をあたえておらずとも、かつて、日本人のオピニオンに影響を与えた人物、この時期の左派の論調、主張の典型、なんらかのかたちで注目に値する主張をとりあげる。

 1979年1月号「世界」において、「ベトナム。に平和を!市民運動」の中心的存在で、広く影響力を持つ作家の小田実氏が『いまこそ、「安保闘争」を -状況から考え、訴える-  』を掲載している(注1)。小田氏は「日中平和友好条約」を、日本による中国に対する侵略戦争に「法的」に終止符をうっていることから、 さらにそれが日本によるアジア全体に対する侵略に「法的」に終止符を打ち、これからの日本とアジアの有効関係確立をかたちづくる、日本の国是となる「全方位外交」の礎となると評価している。しかし小田氏は、それを阻害する要因として「米中日」の軍事的連環のなかにはいっているからだとし、「対ソ戦略」強化に利用されかねない、と懸念している。そして、それを避けるためには「日米」の軍事的連繁を断ち切ること-「日米安全保障条約」を廃棄し、在日米軍基地を日本外に出すことが寛容である、と主張しいている。こうすることで、「米中日」の、ソビエトに対する連関は壊れると主張、その後「安保」の廃棄、在日米軍基地撤去の前提が達成され「北方領土」返還の原理的、現実的交渉が可能になり、「日ソ友好平和条約」を締結できるとしている。「日中」にとっての覇権は、ソ連だけでなく、アメリカも目を向けるべきと言う小田氏は、「日米」の軍事的連繁を断ち切ることによって、「日米」関係を対等、平等にできるだろうと、小田氏は主張している。小田氏がこの用に主張するのは「自主独立」原理にからめて述べているのではなく、第三次世界大戦の危機を感じ取っているからであると述べている。「米中日」が軍事的に強化していることに対して、ソビエトも同様のことを行っている。そして、それにたいしてカーター・アメリカ大統領は中部太平洋を中心として戦略体制を再編成し、北マリアナのテリヤン島に巨大軍事基地を建設しようとしていると非難し、結論としては、日米中の軍事的連関を断ち切ることが、超大国間の戦争を防ぐことができるとし、「安保」(日米安全保障条約)を廃止することを提唱している。

  関寛治・東京大学教授は1980年3月の『世界』において『「冷戦の再開」と世界秩序の危機 -日本の選択のために- 』(注2)と題し、ソ連のアフガニスタン侵攻と、それに対するアメリカの行動、そしてイランのイスラム革命で中東における拠点を失ったアメリカの姿から、日本のとるべき政策を提言している。国連大学を活用したり、地方自治体による外交を行うことによって、従来の主権国家の概念を変えることによって、軍縮を押し進めるべきであると主張している

  1982年7月の『世界』では、「白書・日本の軍事力」と題した特集記事で、増強されていく自衛隊と、極東においても軍事力を強化し、リムパックなどの共同演習でますます緊密化する日米の防衛協力の関係を批判している。(注3)

 1982年4月の『世界』では、ジャーナリストの清川正氏が「軍事傾斜する自民党」との題(注4)で、与党・自民党が、一部の軍事的タカ派によって軍拡が押し進められる現状に危惧を表明している。特に、1982年1月21日の第40回自民党大会において、日本の防衛は対GNP比1%いないに抑えるという政策を、アメリカやヨーロッパ諸国に比べると低すぎるとの考えから、これを撤廃すべきとの自民党内のタカ派の主張と、それに引っ張られる自民党首脳部を批判している。

  同様に『世界』は、1982年6月号でジャーナリストの高岡雄氏による『「シーレーン防衛論」の危険性』(注5)、1983年2月の特集記事「日米安保体制の軌跡」(注6)、1983年5月の進藤栄一氏による「現代の軍拡構造 -軍縮を阻むものとすすめるもの- 」(注7)、1983年8月の「座談会 シーレーン防衛論に異議あり -海の体験を通して-」(注8)など、日本の防衛力強化とアメリカとの軍事的結びつき強化を批判する内容が中心である。

 『世界』においては、日本の防衛強化は許されないとの主張で一貫していると言って良いだろう。日本やアメリカの防衛力増強にたいする批判がある一方で、ソ連の軍拡を比較する内容の記事はすくない。「軍拡は軍拡を呼ぶ」と批判し、「軍縮を進めるべき」の主張で、その具体的な方策、代案はあまり記述されていない。

 

注1 小田実「いまこそ『安保闘争』を-状況から考え、訴える-」

   『世界』岩波書店 1979年1月号

注2 関寛治「『冷戦の再開』と世界秩序の危機-日本の選択のために-」

   『世界』岩波書店 1980年3月号

注3 「白書・日本の軍事力」 『世界』岩波書店1982年7月号

注4 清川正「軍事傾斜する自民党」『』岩波書店1982年4月号

注5 高岡雄「『シーレーン防衛論』の危険性」『世界』岩波書店」1982年6月号

注6 「日米安保体制の軌跡」『世界』岩波書店1983年2月号

注7 進藤栄一「現代の軍事構造-軍縮を阻むものとすすめるもの-」

   『世界』岩波書店 1983年5月号

注8 「座談会 シーレーン防衛論に異議あり-海の体験を通して-」

    『世界』岩波書店 1983年8月号

 

      第5節 保守派の主張

 

 1970年代に入って、「保守」、非・左翼の立場から防衛、安全保障を論じることが増加してきた。その理由には1967年の文芸春秋のオピニオン雑誌『諸君!』の創刊、1973年のサンケイ新聞社による『正論』の創刊、1976年のPHP研究所による『VOICE』創刊によって、「保守」の立場の発言の場が整ったことが大きい。

 しかし、「保守」と言ってもその定義は定まっていない。今回「保守」とは、日本の防衛力強化に賛成の立場に立つ人、ソ連の拡張主義に反対する人および否定的と定義付けしたいと思う。

 1980年3月の『文芸春秋』では「ソ連は怖いですか」という、ソ連の脅威に対しての認識をインタビュー形式で特集している。インタビュアーは評論家の田原総一郎氏である。

法眼晋作・元外務次官はソ連のアフガニスタン侵攻に対して「これでわかっただろう」とソ連の強引さを指摘し、「北海道にだって来るよ」、「日本人は、ソ連に対する認識を根本的に変える必要がある。大統領を殺してまで、自分の意見に従わせる覇権国家、侵略国家である」(注1)と発言、ソ連の脅威を指摘している。

久保卓也・元防衛次官、平和安全保障研究所常任理事はソ連のインド洋政策と石油政策、および外交的行き詰まりがあると言い、「最近、ソ連の様子がおかしい。」と発言、モスクワ・オリンピック前後にハードな政策に打って出ると予測していたという(注2)。  

自民党で歴代首相に閣僚として起用され、次代をになうともくされている元・外務大臣の宮沢喜一氏は、日本国憲法の「諸国民の公正と信義に信頼して・・・・・」に着目、「どこの国とも仲良くする、と言うことを実際に行うと、これは、大変にモラリティのない外交にならざるを得ない」と述べるが(注3)、しかし日本にはそれしかできないとしている。ソ連は脅威であるが、日本は何ら手を打てない、という姿が浮かび上がってくる。

  『文芸春秋』1981年 月号では、中川八洋・筑波大学助教授が「あなたは北海道を放棄できるか   平和を欲するなら戦争を知らねばならない。 」と題し、ソ連の対日参戦によって満州の悲劇を例に挙げ、ソ連が大規模に軍拡を進めるという緊迫した国際情勢の中であっても、「これを直視しようとせず、これに対して何らの緊迫感をすらもたぬ日本人とは、歴史の教訓を生かすことのできない、どこかピントのはずれたユニークな民族かも知れない。」(注4)と言う皮肉を用いる表現で、日本の危機感のなさに警鐘をならしている。その理由のひとつにアメリカがスウィング戦略を採った場合、日本防衛のための戦力がアメリカにはもう無いと表明された同年6月の日米安全保障事務レベル協議を根拠にしている。さらにソ連は歴史的に北海道を領土にすることを狙っていることを指摘し、半年は持ちこたえる継戦能力を持つべきで、それはアメリカの要請する日本の防衛努力と一致すると指摘している。そのことをさけるためにも北海道に資本を投下するべきであると主張している。 

   石原慎太郎氏(作家・衆議院議員)は、『文芸春秋』1982年の6月号で「F4ファントムの欺瞞 俗物性政治を排す 」と題して日本の防衛政策をつかさどる政治家に懸念を表明している(注5)。高度な爆撃能力と空中給油能力をもつF-4戦闘機は、上田哲・社会党衆議院議員の指摘により、国会で問題となり、能力を低減化された。その原因は佐藤栄作政権で種をまかれた融和主義にあるという。それまでの自民党は日韓国交正常化、60年安保など、強行採決、本会議での単独議決をおこなってきたが、佐藤政権では、野党対策に気を取られ、国家が存立していくことにとって有効な手段を自民党が自らの手で断ってしまったことに警鐘を鳴らしている。

 

 

注1 法眼晋作 田原総一郎「ソ連は怖いですか」

   『文芸春秋』文芸春秋 1980年3月 P94,95

注2 久保卓也 田原総一郎「ソ連は怖いですか」

   『文芸春秋』文芸春秋 1980年3月 P96,97

 

注3 宮澤喜一 田原総一郎「ソ連は怖いですか」

   『文芸春秋』文芸春秋 1980年3月 P108

注4 中川八洋「あなたは北海道を放棄できるか 平和を欲するなら戦争を知らなければならない」

   『文芸春秋』文芸春秋 1981年7月号

注5 石原慎太郎「F4ファントムの欺瞞 俗物性政治を排す」

   『文芸春秋』文芸春秋 1982年6月号

 

 

  第6節 日本の大反論

 

 

 『諸君!』の1982年2月号では外交評論家の田久保忠衛氏と立教大学で社会経済学を教える斉藤精一郎氏の共同構成による日米関係のあり方を問い、日本の要人19人にインタビューした「日本側の大反論」が掲載された。

防衛庁長官、自治大臣、通産大臣を務め、自民党内でも総務会長、政務調査会長を務めた江崎真澄氏は、日本の外務省の年功序列人事を批判している。大使に大物を起用して相手国の要人とバランスのとれる人物を置くべきとの主張である。

民社党の永末栄一氏は、「日本の経済進出のすさまじさを外国から見れば、防衛費を使ってないからだと不満を抱くのは当然ではないか。ソ連の隣に位置しながら、GNPの0,9%しか防衛にまわさず、ぬくぬくとくらしているのをみれば カッとなる。首相が来て自分のところの大統領と同盟関係をうたいあげたと思ったら、その舌の乾かぬうちに『軍事的意味はない』などと鈴木首相が言い出すし、一緒に訪米した伊東外相の首を切ってしまう。これでは米国人は鈴木善幸を理解できない」(注127)と鈴木首相の対応が国益を害していると批判。行革によって減税と、対外援助と防衛費が増やせるはずだと主張している。

ニューリーダーの一人として注目されていた中川一郎・科学技術庁長官は、「いまの世界は台風状態だ。その中で日本は不健全財政という難問をかかえているが、他の国に比べればまだ薄曇りの恵まれた状況にある。そんな重大な時期にF4戦闘機に爆撃装置をつけた、つけないで対立しいていいのか」(注1)と、瑣末な防衛論争に明け暮れる日本を嘆き、そして、そのような日本の状態にしたのは憲法を押しつけ、非武装中立を吹き込んだアメリカに責任があるという。

外務省中国課次席事務官を経て衆議院議員に当選し、大平内閣の内閣官房副長官をつとめた加藤紘一氏は、日本の防衛費が対GNP比2%以上になるとアメリカが警戒し出すと言い、そうした懸念への歯止めとして、日本国憲法と日米安全保障条約がある、としている。日本の防衛費が他の予算と比べて「突出」することに批判があることに対しては、「そう批判は強まる。だがそれは政治的判断だ。日本は防衛費を暫増していかねばなるまい。」(注2)と主張している。

石原慎太郎・衆議院議員はアメリカには日本に対して人種差別の感情があると指摘し、「防衛問題にしても、日本がインド洋に至るまで海上の輸送路に関する情報だけでも全部握る事態になったら米国は素直に賛成しないだろう」、「東南アジアの平和は日本の経済内にあるおかげだ。」、「日本が東南アジア、インド洋のシーレーンを守るという姿勢をとにかく示さなければなるまい。」と主張、「吉田茂氏のつくった意識のレジーム変えないとダメだ。日本の政治家はいまだ吉田レジームに入っている。」と軽武装国家の日本は変革しなければならないと主張している。(注3)

 

注1 中川一郎 田久保忠衛 斎藤精一郎 「日本の大反論」

   『諸君!』文芸春秋 1982年5月号 P52,53

注2 加藤紘一 田久保忠衛 斎藤精一郎 「日本の大反論」

   『諸君!』文芸春秋 1982年5月号 P54

注3 石原慎太郎 田久保忠衛 斎藤精一郎 「日本の大反論」

   『諸君!』文芸春秋 1982年5月号 P56

 

 

第7節 軍事論

 

   『中央公論』の1983年の7月臨時増刊号に伊藤憲一・青山学院大学助教授は「S

S-20 極東配備に日本どう対応すべきか」という題で、SS20ミサイル問題を取り上げている。「ヨーロッパと極東ではアメリカの核戦略はちがってってくる。それは戦域核配備による核戦力のパワー・バランスはちがう、つまり東京という政治・経済の中枢の首都と、シベリアの僻地では核の重みがちがってくる。そして、極東ソ連軍戦域における戦争抑止のためのもっとも決定的な要素は、日米同盟側の極東ソ連軍に対する通常戦力比での優勢の保持であるということを主張したいのである。結局日本がアメリカに対して核保証を求めるとすれば、それはシベリアではなく、モスクワを直撃できる戦略核による核保証以外にありえない。その意味でソ連のSS-20極東配備に対するわが国の最前の対応は、外交的にそのような配備に反対し、さらにSS-20のグローバルな廃棄を求めるとしても、日米関係の信頼保持に努めるとともに日米同盟関係の信頼性保持に努めるとともに、日米同盟の協調体制の下で独自の通常戦力整備に努力することであろう。」(注1)と、日本は、SS-20ミサイルに対抗し、戦域核を配備することよりも、日米同盟の下、アメリカの戦略核でソ連のそれに対抗すべきで、日本のとるべき道は、日米同盟を強めるとともに、みずからも通常戦力を強化することに専念するべき、と主張している。

 雑誌『正論 』1983年9月の臨時特別号である、『正論特別増刊-ミサイルと日本の防衛』には、久住忠雄氏(軍事評論家)は、「米国が極東のソ連にSS-20に対抗手段として、ヨーロッパのようにパーシングⅡやGLCMではなく、SLCMを海上に配備しようとしているのは、多分に日本の非核三原則を配慮したものと理解すべきであると思う」(注2)と述べている。これは日本に存在する異様な核アレルギーを的確についている。また、日本はもっとアメリカの核パワー・バランスの認識を理解し、この分野で軍縮を進める役割をおうべきだ、と指摘している。

  岩野正隆氏(軍事専門家)は、1984年3月号の『現代』において、「SS-20の脅威と日本の対応」において、次のような提案をしている。SS-20ミサイル対策として政治努力、外交努力を強化し、ソ連との対抗力を維持するとともに、情報収集能力を保持することすすめている。具体的には偵察監視衛星を保有することや、オーバー・ホライズン型バックスキャッター・レーダーを富士山の山頂に配備し6000メートル先までレーダーによる警戒網を築く、などとしている。

さらに、SS-20ミサイルが日本に向けて発射される事態が生じたとき、男体山、立山、伊吹山の各山頂に自由電子レーザーなどの高出力レーザー発射装置を配備し、さらにロッキードC-130Hハーキュリーズ輸送機にエキサイマー・レーザーを搭載し、空中哨戒を実施する事を提案している。さらに空中給油機による空中給油によって、広範囲、長時間防衛が可能になるとしている。これらは日本版SDI(戦略防衛構想)ともいえるものである(注3)。

しかし、レーザーによるSS-20ミサイル迎撃は、日本に置いては基礎研究もおぼつかない状態で、本家のアメリカも実験段階で、配備までは長時間を有すること、新型防衛兵器を配備すると確実に反対運動が生じることを考えると、現実的には難しいと考えられる。

また、戦術輸送機のC-130Hより、長時間飛行、戦略輸送が可能で、日本の民間エアラインが使用し、非常時の部品供給、整備の共通性を考えると、ボーイング707,ボーイング747,ボーイング767、ダグラスDC-10の方が適切に思われる。本家アメリカも、レーザー兵器の大きさを考えるとボーイング747クラスの大型航空機を使用検討している。しかし岩野氏の提案は、防衛に関しては受け身で、軍事的なことを忌避してきた日本においては画期的でもある。

 

注1 伊藤憲一「SS-20 極東配備に日本はどう対応すべきか」

   『中央公論』中央公論社 1983年7月臨時増刊号 P99

注2 久住忠雄「正論特別増刊-ミサイルと日本の防衛」

 『正論』産経新聞社 1983年7月臨時増刊号

注3 岩野正隆「SS-20の脅威と日本の対応」

   『現代』講談社 1984年3月号

 

第6節 佐瀬氏と田岡氏の論争

 

 1984年11月号雑誌『諸君!』では、佐瀬昌盛・防衛大学校教授と田岡俊二・朝日新聞編集委員が、「SS-20とトマホーク どっちが脅威か」と題して、討論している。

 この討論のきっかけは佐瀬氏がこの雑誌『諸君!』に、1984年2月号から7回にわたって「INF交渉 これだけの虚報」と題した論文を掲載したことによる。一方、田岡氏は同誌の10月号に「佐瀬防大学教授論文の『奇妙な論理』を問う」と題して、佐瀬氏の考えに疑問を呈している。

佐瀬氏は、「非核三原則は拡大しているから本来の姿に戻すべきであり、核の一時寄港、及び領海通過は『不問に付す』べきである。」と主張して、アメリカ軍艦船が核弾頭着きトマホークTLAM(トマホーク陸上攻撃ミサイル)を搭載して、日本に領海通過、寄港しているという事実を認めるべきであるとした。また、「防衛政策として、ソ連の核の脅威にたいしては、アメリカの核抑止力に依存するという抽象的表現で片づけているのはおかしいと思う。そこでそのように抽象論の域を出ないのは、非核三原則というものに原因があるのではないかと問題を提出した。」と主張している(注1)。

この佐瀬氏の主張にたいし田岡氏は「非核三原則は、万一核戦争になったとき、ソ連の先制攻撃を受ける公算が少しは減るというだけの価値はあるとおもう。また、非核三原則のおかげもあって日本は幸い今まで米ソの核軍拡競争に巻き込まれず、自国の防衛だけに専念してこられた。核搭載艦の寄港等を認めてしまうと、防衛ノイローゼのソ連がどういう反応を示すか。経済困難のなかで無理をして、また海軍を増強し、哨戒機をもっと増やし、トマホーク搭載艦が遊弋する日本の太平洋岸までパトロールを強化するでしょう。時債迷惑な話ですが、そうなると我々もまた対抗策ということで、アメリカからは会場、航空部隊を増強しろなど言ってくる。金ばかりかかって、日本の安全性が高まるわけでも全くない。」(注2)と述べている。

この田岡氏の主張する「非核三原則で日本は守られた」という根拠は全く見当たらない。アメリカの核抑止力を計算に入れることができる日米安全保障条約がソ連にとって障害となってソ連が行動できなかったと言うことが考えられる。経済力では世界のナンバー2となり、アジア・太平洋地域における西側陣営の要石となっている日本が、防衛力増強にためらいを見せるということは、ソ連の軍事力に屈したとのメッセージととられることが予想される。

 また、田岡氏は「現実的には核付きトマホークの寄港を認めた方が今より一層日米関係は険しくなり、国内の不和も激化するでしょう。米と西欧の関係は明らかにそうなった。西独等は、ソ連がSS-20の配備を抑制しないと、米の中距離ミサイルをおかせるぞ、とおどして双方の核配備を抑えようと努めた のでしょうが結果は失敗、双方が配備することになった。」と主張しているが、射程距離が短い中距離ミサイルゆえに、到達時間も短く、対処不能となるこの兵器は、結局両者の「恐怖の均衡」によって、1987年7月に「グローバル・ゼロ」、すなわち両者が全面廃棄することが可能になった。

 

注1 佐瀬昌盛「SS-20とトマホーク どっちが脅威か」

   『諸君!』文芸春秋 1984年11月号 P233 

注2 田岡俊二「SS-20とトマホーク どっちが脅威か」

   『諸君!』文芸春秋 1984年11月号 P234 

 

 

  第7節 永井要之助氏の吉田ドクトリン賛美

 

   「戦略」という言葉が再び使われ始めたのもこのころである。『文芸春秋』1984年1月号から始まった東京工業大学教授・永井陽之助氏による長期連載「現代と戦略」は限定的ではあるが反響を呼んだことは間違いないと言っても差し障りは無いだろう。(注134)

  この永井陽之助氏による「現代と戦略」は孫子の兵法、クラセヴィッツの戦争論をはじめマキャベリ、ジオミニ、マハンなど、洋の東西を超えた戦略的思想の古典からの引用と、近代の戦争、外交、防衛政策を幅広く分析し、日本のあるべき姿、戦略を模索し、永井氏なりの答えを出している。

永井氏の答えとは1984年の『文芸春秋』5月号でしめされた「現代と戦略5 安全保障と国民経済 吉田ドクトリンは永遠なり」と題した論文で示されている。 ここでは、古くから言われている「大砲とバター」から発展し、「大砲でバター」、すなわち軍産複合体のアメリカを永井氏は軍事ケインズ主義と呼び、経済を疲弊させた原因として否定的に捉えている。レーガン政権において軍拡が続いている現状は、経済を困難に導くものと断定している。

永井氏は、日本も軍事的ケインズ主義になる可能性もあったが、この危険性を断ち切り、民間の需要を作りだし、日本を繁栄に導いたのは、吉田=池田=宮沢と続く保守本流勢力であると指摘している。それは大蔵省、財界主流、金融界の均衡予算優先主義が大きな支えとなったという。また社会党をはじめてとする野党の空想的防衛計画提案の非現実性と、右傾化への危機感が経済中心の政治を導き出し、保守本流の政策を実行できた、との分析である。永井氏はこのような状況下で維持され続けたグループを政治的リアリストと呼び、保守本流、大蔵省、経済企画庁、通産省、財界主流など経済重視の政策による政治を目指すグループを高く評価している。

永井氏は、防衛庁、海上自衛隊、航空自衛隊、防衛庁、自民党右派、民社党を軍事的リアリストと呼んでいる。軍事力を強化し、日本の安全を高める政策を重視し、また、そのために同盟(日米安全保障条約)重視、あるいは強化する集団と定義している。永井氏は、軍事的リアリストの主張するタカ派的政策、「三海峡封鎖」発言(有事の際、対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡を封鎖する)、1984年9月に発足させた危機管理問題懇談会、日本版NSC(国家安全保障会議)に懐疑的な態度である。

そして、日本の軍事的リアリストが行うであろう軍事支出に寛容な政策は、軍産複合体を誕生させ、軍需契約業者、軍事関係の職業官僚、軍事戦略の専門家、軍事評論家、軍事テクノロジーの技術者、そのPR費用にむらがる右翼ジャーナリズムなどを生み出し、「大砲がバター」の状態になって、国家の財政の悪化を招き、経済を停滞させる要因になると批判する。

軍事は最小限で、経済を重視する吉田-池田-宮沢と続く保守本流の「吉田ドクトリン」さえ維持していれば日本は安泰であると主張している。しかし、台湾、韓国のように、日本より小規模な国力で日本より防衛支出の割合が多いこれらの国も経済発展を成し遂げた。日本が経済重視、軽武装の国家ゆえに発達したと断じて良いのであるか疑問である。

 保守派とは本来、「夜警国家」を考える政治思想である。国防・治安には力を入れるものの経済は放任主義という思想であるから、永井氏は保守をはき違えている。(注1)

 

注1 伊藤陽之助「現代と戦略」

   『文芸春秋』文芸春秋1月-12月号

 

第5節 世論の動向

 

 内閣総理大臣官房広報室による昭和59年11月の調査(前回は昭和56年11月調査、前々回は昭和53年11月調査)では、自衛隊に対し「よい印象を持っている20,1%」(前回20,1%、前々回22,6%)、「悪い印象は持っていない54,2%」(前回51,1%、前々回52,8%)、「よい印象は持っていない13,7%」(前回11,2%、前々回11,1%)、「悪い3,1%」(前回2,3%、前々回3,1%)となっている。

 防衛費について、「増額したほうが良い14,2%(前回20,1%、前々回47,3%)、「今の程度でよい54,1%」(前回47,3%、前々回47,6%)、「わからない14,0%」(前回14,0%、前々回17,6%)、「今より少なくてよい17,7%」(前回15,0%、前々回10,0%)となっている。(注1)

 

 

注1 防衛庁「平成15年度版防衛白書」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ソ連弱体化・崩壊後の日本の安全保障

 

 

 

 

 

 

 

 

 1985年、ゴルバチョフ政権が誕生したソ連は中距離核戦力全廃に合意し、雪解けムードが漂った。しかし、1987年のソ連の戦力は正規軍500万人、予備役5500万人という強大なもので、装備もT-72戦車、T-80戦車など新世代戦車やミコヤンMiG-29戦闘機をソ連と衛星国、友好国に配備する質の高い軍事力を誇っていた。

 

 

 

第1節  湾岸危機と湾岸戦争

 

 

1990年(平成2年)8月2日、イラク軍がクウェートに侵攻、全土を制圧した。またイラク軍はサウジ・アラビア国境付近まで展開し、サウジ・アラビアとの戦闘も懸念された。国連安全保障理事会はイラク軍の即時かつ無条件の撤退を求める決議660号を採択、8月6日には経済制裁決議661号、8月9日にはクウェート併合を無効とする決議662を採択した。アメリカ合衆国は8月7日にサウジ・アラビアに派兵を決定し、イギリス、フランス、アラブ諸国も追随した。さらに国連安全保障理事会は武力行使も含む海上封鎖に必要な措置を認める決議665号を採択する。国連安全保障理事会は11月29日、アメリカ軍を中心とする多国籍軍にイラクが翌年1月15日までにクウェートから撤退しない場合、「あらゆる必要な手段」をとる権限を付与した。

 1991年1月17日、多国籍軍は爆撃を開始した。海上、水中からは海軍の艦船、攻撃型原子力潜水艦からRGM-109/UGM-109トマホーク巡航ミサイルが発射された。空軍はマクドネル・ダグラスF-15Cイーグル戦闘機の護衛、ゼネラル・ダイナミクスEF-111レイヴン電子戦機のエスコート・ジャミング、マクドネル・ダグラスF-4GファントムⅡ防空制圧機による敵防空網制圧という補佐の元、ゼネラル・ダイナミクスF-16ファイティング・ファルコン戦闘機が重要拠点を爆撃した。

また、1988年のパナマ侵攻「ジャスト・コーズ作戦」が初陣のロッキードF-117ナイト・ホーク戦闘爆撃機がステルスの特性を生かし、敵防空網を掻い潜りGBU-28 2000ポンド・レーザー誘導爆弾で精密爆撃を実施した。

2月23日に地上戦に突入した。第1機甲師団「オールド・アイアンサイド」、第1騎兵師団「ファースト・チーム」、第3機甲師団「スピアヘッド」、第1歩兵師団(機械化)「ビッグ・レッド・ワン」が投入され本格的な機甲戦を展開した。複合装甲に劣化ウラン装甲を施したゼネラル・ダイナミクスM1A1HAエイブラムス戦車は、イラク軍のT-72戦車をはじめとする機甲部隊を一方的に壊滅させた。空からはフェアチャイルドA-10AサンダーボルトⅡ攻撃機とマクドネル・ダグラスAH-64Aアパッチ攻撃ヘリコプターが近接航空支援を実施した。

2月27日にはジョージ・H・W・ブッシュ合衆国大統領が勝利宣言を出し、イラク側も戦闘停止を宣言、戦争は終了した。国連安全保障理事会は4月3日に決議687号を採択、イラクが受諾したため湾岸戦争は正式に停戦した。

1991年4月24日、日本政府は自衛隊法99条に基づき、ペルシャ湾に敷設された機雷を除去するため「ペルシャ湾掃海派遣部隊」の派遣を閣議決定した。「ペルシャ湾掃海派遣部隊」は掃海艇4隻、掃海母艦1隻、補給艦1隻、人員511人で構成され、4月26日日本を出港、6月5日から掃海作業を開始した。作業は順調に進み、10月30日に帰国した。

 

 

第2節  PKO協力法と自衛隊カンボジア派遣

 

第1項  国際連合平和協力法案

 

 1990年10月16日、海部俊樹内閣総理大臣は国会に「国際連合平和協力法案」を提出した。「国際連合平和協力法案」は国際連合平和協力隊を創設し、国連決議を受けて行われる国連平和維持活動(PKO)を中心に迅速な協力を実施するというものだった。停戦監視、紛争後の現地政府への行政的援助、選挙監視・管理、輸送・通信、医療活動、難民救済活動、再建活動などを主な任務とし、国際連合平和協力隊は武力行使および武力行使の威嚇をしてはならず、隊員の武器は必要最小限度の武器、「小型武器」とされた。「小型武器」は警察法による定義、概念から小銃および拳銃とされた。輸送は武器弾薬の輸送は原則として実施されず、戦闘が行われている場所への食糧、水の輸送も行われないとした。

 1990年10月18日から衆議院本会議と国連特別委員会で論議されたが、社会党、公明党、共産党ら野党の抵抗は強く、与党・自由民主党からも疑義の声があがった。こうした背景を受けて11月8日、衆議院議院運営委員会理事会で廃案の確認手続きが取られ、審査未了、廃案が確定した。

 

第2項 PKO協力法案

 

 11月8日には、自由民主党、公明党、民主社会党の3党は幹事長・書記長会談を開き、国際連合平和協力法案に代わる新たな国際平和協力の枠組み作りを協議し、合意文書「国際平和協力に関する合意覚え書書」をまとめた。内容は憲法の平和原則を堅持しつつ、国際連合に対する人的協力の必要性から自衛隊とは別個の組織を作ることを目的とする立法作業に着手する、というものだった。1991年3月8日、政府はPKOに参加する新組織についての基本見解をまとめ、自由民主党に提示した。この見解では自衛隊と別組織にするとされていたが、政府の協議の結果これでは無駄が多いという結論に至り、自公民3党もこれに合意したため自衛隊が新組織に併任として参加することが前提となり、PKO等へ参加する新組織に関する政府案骨子が策定された。

 8月1日に政府が自民党に示した「新たな国際平和協力に関する基本的な考え方」では、「平和維持活動協力隊」を創設し、自衛隊の部隊・隊員の参加については身分を併せ有することとされた。8月2日には「平和維持隊への参加に当たっての基本方針」、いわゆる「PKO参加五原則」が示された。「PKO参加五原則」は停戦合意の成立、PKOの実施及び我が国参加に対する受入国および紛争当事者の同意、平和維持隊による中立的立場の厳守、以上の基本方針のいずれかが満たされない状況における政府判断による我が国部隊の撤収の権限確保、要員の生命等のための必要最低限の武器使用、である。

 9月19日に第121回国会に「国際連合平和維持活動に対する協力に関する法律案」、いわゆる「PKO協力法案」を国会に提出した。

 11月5日に召集された第122回国会でも継続審議された。平和維持軍(PKF)派遣についての国会事前承認を主張する民社党に妥協して、自民・公明両党は「自衛隊部隊のPKF参加について-その実施計画の決定2年後に継続が必要と判断された場合には国会の承認を求めなければならない」との修正をおこない、PKO協力法案は衆議院で可決された。しかし参議院では十分な審議時間が確保できなかったため次期通常国会で継続審議されることになった。

 1992年1月24日に召集された第123回国会において、PKF本体業務への自衛隊部隊の参加は別の法律で定める日まで実施しないとする、いわゆる「PKF凍結」を決め、その結果6月9日に参議院本会議で修正議決され衆議院に送付された。6月15日には衆議院でも賛成多数で可決された。

 

第3項 カンボジア派遣

 

 PKO協力法案に基づき、1992年3月から国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に自衛隊部隊等が派遣された。派遣された自衛隊部隊は陸上自衛隊の施設科大隊(工兵)と空輸する航空自衛隊輸送機部隊であった。

 

 

     第4節 冷戦終了

 

アンドロポフ、チェルネンコと続いたソ連の書記長は強硬路線だったが、ゴルバチョフになって西側自由主義陣営の前に屈することとなった。石油価格の暴落により経済力が落ち、西側勢力にはりあって強大化させた軍事力をソ連経済が支えきれなくなっていた。ゴルバチョフはペレストロイカ、グラスノスチと融和政策を打ち出してきた。これにより西側自由主義陣営はゴルバチョフを持ち上げ平和の訪れを期待したが、それは幻想にすぎなかった。 

中国の共産主義独裁と拡張主義は続き、そのほか数々の独裁政権は存在し続けた。さらに1990年8月のイラクのクウェート侵攻にはじまる地域紛争の増加で、その期待は砕かれた。しかしながら各国政府、財界、マス・メディアは独裁政権の圧政を黙認し、新たなる市場として利用する。

ジョージ・H・W・ブッシュ大統領はアメリカ主導の世界管理、グローバリズム「新世界秩序」を掲げた。しかし、民族浄化がおこなわれ情勢が悪化するボスニア紛争に対しては、セルビア共和国が支援する精強なセルビア人勢力と対峙するのに躊躇した。

平和維持活動への貢献を迫られたアメリカであったが、ローレンス・イーグルバーガー国務長官は、危険なボスニアを避け安全そうなソマリアを国際貢献の場として選択した。 

ソマリア平和維持活動UNOSOMⅡに参加したアメリカだったが、非装甲のM998ハマー高機動多目的装輪車輌のみの治安維持活動は、ソマリア現地武装勢力の持つ自動小銃、機関銃の格好の的となった。結局、GMカナダLAV-25装甲車とベルAH-1W攻撃ヘリコプターが護衛する大コンボイ編成での移動を余儀なくされる危険な地域紛争で、アメリカ軍兵士の死は続き、撤退することとなる。

このような中で日本は、中東から石油を大量に輸入しながら湾岸戦争に参戦しなかったためにアメリカを中心に叩かれる。申し訳程度に遅刻するかたちで停戦後に機雷処理に駆けつけただけだった。日本は国際貢献という大義に脅かされながらカンボジアPKOに参加した。カンボジアPKOに参加させられた陸上自衛隊施設大隊は過激なポル・ポト派の攻撃可能性のもと、非装甲トラックのみで派遣させられる。銃は64式小銃のみ、しかもその銃は空マガジン(空弾倉)しか装着が認められなかった。戦闘に巻き込まれなかったのは不幸中の幸いであった。

 1980年代前半の日米防衛摩擦は、1980年代後半からは日米貿易摩擦となり、日本にはアメリカ側の理不尽な要求が突きつけられた。アメリカ側の要求の一つにスーパー・コンピューターの一方的な押し付けがあった。アメリカはクレイ・リサーチ製スーパー・コンピューターの導入を求めてきたにもかかわらず、アメリカは日本製スーパー・コンピューターを「国家安全保障上の理由」で輸入採用を拒んだ。

政府購入電子機器は従来からアメリカより日本のほうが外国製品を購入していたが「閉鎖的」、「非関税障壁」との理由でさらなる購入を強いられた。自動車は過去の外資参入規制のツケがまわってきたのか、日本の自動車会社が「自主的」という名目の強制でアメリカ製部品を購入させられた。トヨタ自動車はゼネラル・モーターズ社シボレー・ブランドの中型車シボレー・キャバリエを自社の販売網で売らされることになった。

それでも満足できないアメリカ野党の民主党はトヨタ自動車のレクサス、日産自動車のインフィニティ、本田技研工業のアキュラという高級ブランドが事実上輸入不可能になるほどの高率の関税をかける提案をおこなった。 

輸送中に割れやすいため世界的に輸出・輸入の少ない板ガラスにおいて、日本は板ガラスを輸入していないと批判、閉鎖的な市場と批判された。

また、日本の公共事業にアメリカ企業が食い込むべく、関西国際空港建設などへの参入の要求や、公共事業自体の拡大とそれにともなうアメリカ企業の参入をもとめてきた。

 さらに防衛分野でもアメリカの追い込みは続いた。FSX(次期支援戦闘機)では当初日本は、エンジン以外は国産を予定していた。エンジンはゼネラル・エレクトリックF404ターボ・ファン・エンジンをライセンス生産する予定であった。アメリカからもゼネラル・エレクトリック、ユナイテッド・テクノロジーズ(プラット・アンド・ホイットニー)からターボ・ファン・エンジンの売り込みがはかられた。

しかし、アメリカの国防省、空軍には日本が戦闘機を国産することに異論があった。日本が国産戦闘機製造できるようになるとアメリカ離れをおこす、日本が吹聴している技術力で作られる戦闘機はアメリカ製戦闘機の性能を凌駕することになり危険である、というものだった。

結局FSXは、紆余曲折の末、ゼネラル・ダイナミクスF-16ファイティング・ファルコン戦闘機をベースとする日米共同開発となった。安全保障でアメリカに頼っているためアメリカの主張であるアメリカ製戦闘機の導入というアメリカ側の主張を受け入れざるを得なかった。開発比率は日本60%、アメリカ40%となった。

しかし、アメリカでは元商務省高官、三極委員会(名誉会長:デイヴィッド・ロックフェラー、歴代会長はヘンリー・キッシンジャー、ズビグニュー・ブレジンスキーなど)スタッフである経済戦略研究所(ESI)所長のクライド・プレストウィッツが、

「日本はアメリカの航空機技術を盗もうとしている、アメリカの市場を脅かす」

とFSX日米共同開発反対を訴え始めた。

プレストウィッツの主張は日米貿易摩擦のネタに飢えている議会で重宝され、FSX計画は妨害された。さらにプレストウィッツと議会のFSX反対に後ろ盾を得たゼネラル・ダイナミクスは日本に技術を供与するという契約に反し、日本へのフライ・バイ・ワイヤ技術のソース・コード供与を拒否した。

これによって計画は大幅に遅れ、開発費は高騰した。日本は安全保障をおざなりにしてきたツケを払わされることとなった。安全保障という直接的には経済につながらないものに手をぬいたばかりに、経済でも大きな被害を被ることになった。

 日本は経済分野で包囲網をしかれ、軍事的にも苦境に陥ることになるのだが、日本の政治家、官僚、メディア、学者、研究者、国民はどう行動していくのか、検証していく